24 : 蒼焔
全てを終わらせてしまおうと、伸ばした手の指先に力を込めた稜はしかし、ここで聞くはずのない名を誰かが叫ぶのを耳にして、動きを止める。
身体が強く締め付けられるような感覚はなくなっていなかったものの、稜は気になって恐る恐る、閉じていた目を開く。
稜の顔を強く覆っていた手はいつの間にか外されており、ぼんやりと拓けた視界にまず最初に映ったのは、斜め下から見る相良伊織の顔だった。
「・・・相良さん・・・」
と、稜は呟いた。
いつの間にか身体にかけられた薄手のコートもろとも稜を腕に抱く相良は、その呼びかけに反応を示さない。
切羽詰まったような表情をした相良の視線は、食い入るように前方に注がれていた。
相良の視線を追いかけた稜は ―― 転じた視線の先で繰り広げられている光景を見て、死にかけていた聴覚が一瞬にして現実世界に繋がってゆくのを感じた。
入り乱れる男たちの怒号。
呻き声。
何かが折れるような、嫌な音。
それらの音が一斉に稜の聴覚を満たしてゆき ―― その源となる混沌とした光景の中央には、俊輔がいた。
それは稜が初めて見る、極道としての俊輔の顔だった。
理性も理屈も、何もかもがどこかに吹き飛んでしまった、血塗られた狂気に彩られた極道の顔 ―― 稜は息を呑み、庇うように身体に回された相良の腕をきつく掴む。
稜が瞬きもせずに見つめる中、俊輔は急ぐ訳でもなく、ただ一点を見つめて淡々と歩を進めてゆく。
周りの激しい喧噪を気にもとめず、俊輔に掴みかかろうとする男たちを永山や三枝を初めとする辻村組の面々が必死で排除しているのにも、一切、目もやらない。
気のせいだろうか、その身体の周りに、蒼い焔が揺らめいているのが見える気がした。
あたかも俊輔一人だけが周りとは違う景色を見、違う空気を吸い、違う世界の音を聞いているように見えた。
俊輔が向かっている、見つめているその先には、和田が立っている。
顔色を失った和田が、自分に向かって歩いて来る俊輔に、何か訳の分からない言葉を浴びせかける。
それと同時に懐に差し込まれた和田の手首を、歩いて行った俊輔が何気ないやり方で掴んだ。
どこをどうしているのか ―― 俊輔の手は普通に和田の手首を掴んでいるだけのように見えたが、遠目から見ても和田の手が大きく震えているのが分かった。
懐から引き出された和田の手に握られていた拳銃が、その手から滑り落ちる。
そのまま引力に従って地面に落ちてゆこうとした拳銃を空中で受け止めた俊輔の膝が、和田の腹部にめり込む。
低く呻いて地面に尻餅をついた和田の口中に、俊輔は手にした拳銃の銃口を容赦なく突っ込んだ。
「・・・っ、若、いけません!和田を今殺しては駄目です、若 ―― 筆頭!そいつを殺してはいけない!!」
俊輔の背後に飛びかかろうとした國竜会の舎弟を殴りつけながら、三枝が叫ぶ。
「筆頭、落ち着け!そいつを俺たちが殺しちゃまずいって、筆頭、聞こえねぇのか・・・っきしょう、てめぇら邪魔だ! ―― と永山は殴りかかって来た2人の舎弟のうち、片方の鼻柱に思い切り肘を叩きつけ、もう片方の舎弟の右膝をあらぬ方向に蹴り飛ばしながら叫んだ ―― おい、筆頭・・・俊輔、待てって・・・俊輔!!」
三枝に続いて永山もそう怒鳴ったが、俊輔は振り返りもしない。
三枝や永山だけでなく、辻村組の他の幹部たちも俊輔を何とか思い留まらせようと、口々に声を上げる。
しかしその誰もが俊輔に襲いかかろうとする國竜会の男たちを排除するだけで精一杯で、俊輔を決定的に止めることが出来ない。
彼らの必死な懇願の声を無視しているのか、それとも聞こえていないのか。
それは分からないが、俊輔は周りの必死の懇願に少しも心動かされる様子なく、拳銃の安全装置を外す。
口内に差し込まれた銃身から色濃くその響きを聞いた和田が、何かを訴えるように低く呻いた。
だが俊輔の視線 ―― 感情がひとかけらも浮かんでいない双眸に見下ろされた和田は、空間に縫い止められているかのように、身動きひとつしない。
和田を呼ぶ声と、俊輔を呼ぶ声が、ひときわ激しく交錯した ―― その、時。
「俊輔・・・!」
と、稜が思わず、その名を呼んだ。
それは、それほど大きな声ではなかった。
まだ半分朦朧としたような状態であった上に、こんな場面で自分が声など上げて良いものなのか、稜には分からなかった。
けれど稜は、見たくなかったのだ。
俊輔がその手で、人を殺す場面など。
いや、むろんこの十余年の間に俊輔が、直接間接問わず一度もその手を汚していないなどとは、考えていない。
極道の世界のことを何も知らない稜とて、そんな甘い世界でないことくらいは分かっていた。
だが漠然と予想をして想像しているのと、実際に直接手を下す場面を目の当たりにするのとでは、正に雲泥の差があった ―― 少なくとも稜にとっては。
いつの間にか、辺りは静まり返っていた。
誰も何も言わず、身動きひとつしなかった。
時間が、止まってしまったかのようだった。
その静寂の中 ―― 稜が俊輔を呼んだ刹那 ―― 俊輔の身体を取り巻いていた蒼い焔が、一瞬にして消滅してゆくのが見て取れた。
そしてその目の奥底に、失われ、死滅したように見えていた感情の小さなうねりのようなものが沸き起こる。
ゆっくりと、長い時間をかけて動かして行った俊輔の視線がやがて、稜を捉えた。
自分の姿を捉えた俊輔に向かって、囁くように、稜が言う。
「俺は大丈夫だ、まだ・・・まだ、何もされてない。だから殺すな。殺さなくていい。俊輔・・・」
それでもなお、暫くの間は誰も、何も言おうとせず ―― 最初に小さく動いたのは、俊輔に拳銃を突きつけられている和田だった。
その小さな動きを敏感に察知した三枝が注意の声を上げるより先に、俊輔が素早く和田に向き直る。
そして銃口を和田の口内から引き出し、素早くその狙いをずらしてから、躊躇なく拳銃の引き金を引いた。
乾いた音と共に発射された銃弾が和田の左耳を吹き飛ばし、倉庫の床、剥き出しの土中にめり込む。
一拍置いて和田が悲鳴を上げ、撃たれた左の耳を押さえて床に昏倒した。
それを見て安堵の息をついた三枝が、俊輔の元に歩いてゆく。
やって来た三枝に、黙って手にしていた拳銃を渡した俊輔が、再び稜と ―― そして相良の方へと視線を流す。
その俊輔の視線を受けた相良の右手が、目にも留まらぬ早さで、動いた。