Night Tripper

25 : 思いがけない言葉

 電光石火の勢いで着ていた黒皮のジャケットのポケットに差し込まれた相良の手には、銀色に光るナイフが握られていた。

「相良さん・・・っ!!」

 稜は叫び、取り出したナイフを躊躇うことなく己の心臓に突き込もうとした相良の右手を、両手で掴む。

 そう、あの夜 ―― “もし今後私があの方に再び会うことがあったら、そのときのことはもう、決めている”と言った相良の言葉を、稜は片時も忘れることはなかった。
 いかなる理由があったとしても、俊輔の意に反して稜を連れて組織を出奔した相良が、再び俊輔に会ったら死のうとするであろうことを、稜は予測していたのだ。

 だがむろん、稜だけの力では相良を止められなかった。
 稜の手はすぐに相良に振り払われたが、稜の作った一瞬の隙に飛ぶようにやって来た永山が、相良の手からナイフを叩き落とす。

「誰か、タオルかなんか持ってこい、早くしろ!」
 床に落ちたナイフを壁の向こうに蹴り飛ばし、拘束した相良の口に指を突っ込んだ永山が、鋭く命令する。

「・・・この、馬鹿が・・・」
 舌が噛み切れないようにするため、口内にタオルを押し込まれている相良を見下ろして、俊輔が呟く。

「とりあえず相良は道明寺のところに連れて行きますが、説得は筆頭じゃないと無理だ。すみませんが、一緒に来て下さい」
 相良の手を掴んだ永山が俊輔を見上げて、言った。
 頷いた俊輔が、顔色を失わせてその場に座り込んでいる稜を見下ろす。

「おい、誰か稜をマンションに連れて行け」
「私が」
 俊輔の命令を聞いた三枝が、一歩前に出て言った。
「私がお連れ致します」

「・・・頼む」
 数秒間、じっと三枝を見てから、俊輔が言った。
 三枝は表情を全く変えずに頷き、車を回せ。と誰に言うともなく、言った。

 1年前にそうしていたように、皆川 ―― 例のネクタイの締め方が妙な男だ ―― が運転する車で、品川に向かった。
 品川に向かう車内で、三枝は一切口を利かなかった。

 大丈夫でしたか、とか、
 この1年どこでどうしていたのか、とか、
 これからどうするつもりか、とか、

 おおよそ普通の人間であれば尋ねるであろう、どのような質問も口にしなかった。
 居心地の悪いことこの上なかったが、まぁ、それも道理だよな。と稜は思う。

 元々、自分が三枝に嫌われている自覚が、稜にはもちろんあった。
 なるべく早く、1分1秒でも早く稜が俊輔の元を離れてくれればいいと、三枝が強く願っていることも、また。

 そして1年前、稜が俊輔の前から姿を消し ―― 相良が稜に同行したのは予想外だったろうが ―― おそらく三枝は、心底ほっとしていたはずだ。

 その稜が再び、俊輔の前に現れた。
 これは稜の本意ではなかったが、三枝の本意ではもっとなかったに違いない。

 どうしたものかと悩み果て、稜と話をするどころではない ―― というか、そもそも稜とは必要最低限以上の話など、したくもないのだろう。
 1年前の三枝が、そうであったように。

 そう考えた稜が、ため息と悟られないようにため息をついた時、車が品川のマンションに到着した。

 駐車場に停車した車から降ろされ、エレベーターで俊輔の部屋へと向かう。
 ドア・ロックを外して部屋に入り、再びドア・ロックを下ろし、リビングに入る。

 そこまで一切口を開こうとしなかった三枝が、リビングの中央でぐるりと稜を振り返り、
「・・・馬鹿なことをしましたね」
 と、言った。

 適当な返答が思いつけなかったので、稜は返事をせずに黙っていた。

「道を訊かれて不用意に車のドアに近付くなど・・・どうぞ攫って下さいと言っているようなものです。
 あなたは自分の立場や置かれている状況というものを、客観的視点で見て判断する能力を養うべきだ。
 自覚がなさすぎる。呆れるほどに」

 稜が引き続き何も言わなかったので、三枝は続ける。

「今日は本当に、ただラッキーだったのです。  まずあなたが攫われた後で、偶然相良と会った道明寺先生が各組事務所にした連絡が非常に的確だった。
 そしてその最初の連絡先に辻村組の主要幹部の殆どが顔を揃えていて、人員を素早く動かせたのもラッキーだった。幹部が纏まって組事務所にいることなど、普段はそうそうないのです。
 各ポイントで少しでも時間がずれたり、連絡が滞ったりしていれば、あなたは今頃死体となって、東京湾で魚の餌です」
「・・・どうも・・・、すみませんでした・・・」
 と、稜は言った。一応。

 反論がない訳ではなかったが ―― 道を訊ねられたことがすぐさま危険に直結するなんて、普通では考えられない、自分は飽くまでも一般人なのだ、等々 ―― 口には出さなかった。
 三枝の話の基準や標準はどこまでも極道世界でのそれであり、稜が稜の基準・標準で話をしても話は永遠に平行線を辿るだけだ。
 エッシャー絵画の中の階段を両端から上がっているようなもので、どれだけ段を上がろうと、向こうからやって来る人には永遠に会えない。

 明らかに腹に一物あるような顔をしている稜を、三枝はしばらく、黙って眺めていた。

 沈黙が一定の長さを越える頃、稜は三枝のそのらしくない態度に内心眉を顰めずにはいられなくなる。

 三枝が今後のことについての話を、“三枝らしい”話し方で続けて行かないというのは、いささか奇妙だった。
 相手に反論や理論武装の暇を与えずに結論を押しつけ、回答を引き出してしまう ―― それが普段の三枝のやり方であるはずだ。
 意見の異なる相手から自分の望む通りの回答を引き出そうとする場合、稜も三枝と同様のやり方をすることが多かったので、それは良く分かっていた。

 一体どうしたんだろう、と訝しんだ稜が思わず首を傾げたのを見て、三枝は軽く息をつく。

「しかし ―― 今回のことでは、あなたに礼を言わなければならない」
「・・・え?」
 思いがけない三枝の言葉に驚いて、稜は聞き返す。

「あの時、若が殺しかけた男は、國竜会の会長代行の地位につく男です。つまり國竜会のナンバーツーです。
 それを駿河会一次団体の筆頭若頭が、その愛人がらみのゴタゴタで勝手に殺したとなれば、内外の非難は免れない。
 駿河会会長である佐藤要は若を非常に高く評価していますが、流石にそうなれば若を庇おうとはしないでしょう」
 と、三枝は淡々と説明した。

「・・・愛人」
 と、稜は思わず繰り返す。

 それは怒るより先に、笑いたくなってしまうような言葉であった。
 同時に、自分が極道の世界でそういう見方をされているのかと考えると、気が遠くなるような、力が抜けるような ―― 非常に複雑な気分になる稜だった。