26 : 12時1分
「もちろん、あなたとしてはこのような言われ方は不本意であり、不愉快なことでしょう。
しかし誤解されては困るのですが、これは決してあなたを軽んじている訳でも、そういう意図で言っている訳でもありません。飽くまでも、あなたの立場を外側から見るとそういうことになってしまう、という話をしているのです」
「・・・あ・・・、はぁ、まぁ、・・・」
と、稜はぼそぼそと言った。
本来であれば抗議の声を上げたいところであったが、今日の三枝は本当に奇妙で、悉く怒る気が削がれる。
三枝が稜に向かって、こんな風にフォローめいた言葉を口にするなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだ。
その裏に皮肉が込められているのなら分かるが、その気配が全くないとなれば、尚更だった。
再び沈黙があり、その沈黙の果て、ふいに三枝が居住まいを正して真っ直ぐに稜を見た。
その強い視線と改まった態度に、稜は内心身構えるような気分だったが、三枝はそれには構わず口を開く。
「今回のことは、本当にありがとうございました。あなたが若を止めて下さらなければ、辻村組は本日を持って消滅するところだった。
あなたは辻村俊輔にとって、そして我々にとっても非常に重要かつ貴重な方だ ―― 遅ればせながら、私にもそれがようやく分かりました。永山の言葉はやはり正しかったのです。いつもの通り」
「・・・はぁ・・・?」
さっぱり訳が分からず、稜は微妙な声を上げる。
困惑する稜を真っ直ぐに見据えたまま、三枝は続ける。
「私は辻村俊輔という男に、文字通り命を懸けております。彼の為であれば、銃弾の雨にこの身を晒すことも厭わない。
そして今日から私は、辻村に対するのと同様、あなたに対しても命を懸けることを誓う」
それは普通に聞くと実に安っぽい、時代遅れのドラマでも使わないような、陳腐な台詞のように響いただろう。
だがそれが三枝の淡々とした、しかし迷いのない強い意志の漲る声で断言されると、それはビック・バン直前の圧縮された宇宙のような重みを伴う言葉になった。
口を利けず、それどころか身動きすら出来ずに呆然としている稜に、三枝がゆっくりと近付いてゆく。
そして手にしていた小さな紙袋を差し出す。
「軽めの睡眠導入剤です。あんなことがあっては、そう簡単にお休みになれないでしょうから」
「・・・はぁ、どうも・・・」
礼を言って三枝が差し出す紙袋を受け取ろうとした稜はそこで、
「・・・あ」
と、思わず声を上げ、息を呑む。
左手の薬指にはめていたはずの指輪が、いつの間にかなくなっていた。
自分で外した記憶は、一切ない。
恐らくは今日のあの騒動の最中に外れてしまったか、外されてしまったのだろう ―― 気が動転していて、今まで気付かなかったのだ。
これまでの日々、絶えず指輪の存在を意識し続けていた訳ではない。
だがやはり1年以上ずっとそこにあったものが唐突になくなってしまうと、奇妙なまでの違和感を覚える。
それにものがものなだけに、それが今の状態で失われたという事実が示唆するものを、突き詰めて考えずにはいられなかった。
「・・・どうかなさいましたか?」
と、三枝が訊く。
「・・・あ、いえ・・・、何でもありません」
と、稜は首を横に振る。
「あの・・・ところで三枝さん、ひとつお尋ねしたいことがあるのですが」
「何でしょうか」
「俊輔と菖蒲さんは、結婚したのですよね?」
稜は躊躇いがちに訊いた。
「いいえ、しておりません。今後そういった予定もございませんので、ご安心を」
三枝はそれが当然のことであるかのように、きっぱりと断言した。
それを聞いた稜は、激しく困惑する ―― 結婚していない?
佐藤要も駿河菖蒲も“結婚は不可避だ”と断言するような態度を見せていたというのに・・・?
「若は本日はここへ戻れないと思いますので、今日はとにかくゆっくりとお休み下さい。
数人の舎弟を外に置いておきますので、何か用事などございましたら、ご遠慮なくお申し付け下さい」
訳が分からず、言葉を失ったまま立ち尽くす稜にそう言った三枝は、きっちりと45度、分度器で計ったかのようなお辞儀をし、静かにリビングを出て行く。
去って行く三枝の後ろ姿を見送った稜は ―― 玄関のドアが開き、ドア・ロックが下ろされる音を聞いてから、身体中の空気を全て吐き出すような、深い息をつく。
そして上げた右手でぐしゃぐしゃと髪をかき回し、
「どうなってるんだ、一体・・・。
・・・しかし何にしてもあの人、苦手なんだよな・・・もうちょっとこう、普通に出来ないものなのかな・・・」
と、ひとりごちた。
その後、稜は三枝の勧め通り、薬を飲んで眠った。
疲れ果てた身体は切実に眠りを求めていたが、それ以上に精神的ショックが大きく、睡眠導入剤の助けを借りても眠りは浅かった。
たぶんそのせいだろう。
普段なら気付かないであろうその小さな物音に、稜は目を覚ました。
12時1分。
反射的に見たベッドサイド・テーブルのデジタル時計で4つの数字を確認してから、稜は視線を上げる。
開いたままになっていた寝室のドアのところに、今まさに寝室から外に出て行こうとする人影があった。
「俊輔」
くっきりと浮かび上がるその黒い人影に向かって、稜は声をかける。
稜のその呼びかけに足を止めた俊輔が、ゆっくりと振り返った。
リビングから漏れる淡い光を背にした俊輔の表情は暗く影になっており、その表情は全く伺えなかった。
「相良さんは?」
影絵のようになっている俊輔に、稜は訊いた。
「・・・もう大丈夫だ。お前のことを酷く気にして、心配していた。近々、会いに行ってやってくれ」
ドアのところに立ったまま、俊輔は答えた。
「そうか、良かった」、と稜は言った。そしてベッド・ヘッドを背もたれにして身体を起こす。「なぁ、ちょっと、こっちに来いよ」
すると俊輔は何故か一瞬、躊躇う素振りを見せた。
だが稜が再び手を伸ばしてベッドの端を指さすと、足音をさせずにそこにやって来た。
「・・・座れば」
と、稜は言った。
俊輔は黙って手近にあった椅子を引き寄せ、静かにそこに腰を下ろす。
どことなく、ぎこちない雰囲気の沈黙があった。
稜は何も言わずに、濃い陰影がついた俊輔の顔を眺めていた。
「・・・心配した」
やがてぽつりと、俊輔が言った。