Night Tripper

6 : 場違い

「我々も君の存在を、最初からきちんと把握していた訳ではない」
 と、佐藤要は説明した。
「ただ辻村組側が半年ほど前からこの結婚話に突然難色を示し始めてな。先日、略式にだが話を白紙に戻してほしいと言ってきた」

「・・・半年前・・・」
 と、稜は小さく呟く。

 確かにそれは、自分が俊輔の元に戻った時期と合致する ―― そう思った稜は、外からは見えない程度に軽く唇を噛む。

「一体何が起こっているのかと調べさせてみて初めて、君という存在がクローズ・アップされてきたのだ。
 最初は何かの気の迷いで、すぐに冷めるものだと信じて疑わなかった。実際、これまでも俊輔はそういう相手を一人に絞ることはしない奴だったからな。
 しかし事は我々が予測したようには進まず ―― 何度か説得を試みてもみたのだが、あいつはまるで聞く耳を持たん。
 そこで君には理解しておいて貰いたいのだが、俊輔は年内にも辻村組の組長に就任することになる。そしてそれが駿河会会長に就任する為の最終ステップであるということは分かる人間には言わなくても分かる話で、実際、あたかも決定事項であるかのように噂になってしまっているのが現状だ。
 そんな状態で内部に火種を抱えたまま無為に時を過ごせば、駿河会内部で闘争が起こる危険がある。
 最近は警察や当局の目を恐れて暴力団闘争というのは少なくなっていることは確かだが、全くなくなった訳ではないし、絶対に起こらないという訳でもない」

 そこまで話し終えたところで、佐藤要は軽く咳払いをする。
 この部屋に案内されてからどれくらいの時が経ったのか、稜には全く分からなくなっていた。

「 ―― 君が何を考えて、何を目的として、何を理由として、俊輔の元に留まろうとするのかは知らん。おそらく君には君なりのたてまえやこだわりのようなものがあるのかも知れんが、そのたてまえやこだわりの前に、人が幾人も死んでゆく ―― そういう可能性が確かにあって、それが明日にも現実になるかもしれないのだとしても、それでも君は平気なのかね。それでもなお、自分のたてまえやこだわりの方を守ろうとするのかね。
 それとも闘争の中心に位置するのは俊輔であり、俊輔が犠牲になるかもしれない ―― 君はそうなることを見越して、そういう形で自分を貶めた俊輔や我々に復讐をしようとしているのかね?
 もしそうなのだとしたら私は、この場で君という存在を消せという命令を下す。俊輔に後で何をどう言われようとも」

 ごく普通の口調で、佐藤要は言った。

 それはまるで、近所に何かを買いに行かせるというような、ちょっとした用事を頼むという口調だった。
 だが佐藤要の言葉を聞いた瞬間、その後ろに控える男たちの稜を見据える2対の目が、冷え冷えとした殺気を帯びるのが分かった。

 部屋の空気が更に重く、暗く、沈殿してゆく。
 その中で、自分が選択を迫られているのを稜は痛いほど感じていた。

 このまま黙って、俊輔の前から姿を消すのか。
 大勢の人が死ぬかもしれないと知ってもなお ―― その犠牲者の中に俊輔が含まれるかも知れないとしても ―― それでも、俊輔と共にいることを選ぶのか。

 いや、どちらを選んだとしても、大した差はないのかもしれない、と稜は思う。
 俊輔の側にいることを望んだ自分が、その後生かされたままでいる保証はどこにもないのだ。

 自分はもう二度と、生きて俊輔に会えないかも知れない。

 口の中だけで、そう、呟いてみる。
 けれどそれはどう言い方を変えてみても、冗談みたいに馬鹿げて聞こえた。真実味が、まるでなかった。

 時間が経てば経つほど部屋の空気はその質量を増し、硬く重くなり、稜の選択肢を押し狭めてゆく。
 その圧力に屈するように稜はゆっくりと口を開く ―― 迫られた選択に対し、どういう答えを返すか、心を決められないままに。

 だが流れるその重い沈黙を破ったのは、稜ではなかった。

「 ―― 会長」
 と、そこで初めて、駿河菖蒲が言った。

 それはしっとりと落ち着いていて美しい、しかしこれまでに多くの人に命令を下し、従わせることを当然としてきた人間の声音だった。

「お話の途中で失礼とは存じますが、ここへ来てかれこれ30分が経過いたしました」

 それを聞いた佐藤要は振り返って駿河菖蒲を見たが、彼女は稜に視線を固定したまま ―― 彼女はお茶を出したその時から、見定めるように稜を眺めているのだったが ―― 続ける。

「御堂専務がどう言われようと、これ以上俊輔さまをお留めになるのは難しいのではないかと思います」

「・・・しかし」
 と、佐藤要が言った。
「会長は俊輔さまの元へどうぞ。
 私が志筑さんと2人きりで、話をしてみたいと思います」
 と、駿河菖蒲は佐藤要の言葉を押し留めて、言った。

 多少躊躇いの気配を見せつつ佐藤要たちが部屋を出て行った後、部屋はこれまでとはまた一風違う雰囲気の沈黙で満たされる。

 部屋の広さと人間の数の割合が不均等にすぎるせいもあっただろうが、そこにはそれだけでは説明のつかない奇妙さがあった。

 そんな沈黙の中、駿河菖蒲はちらとも視線を外さずに稜を見ていた。

 彼女の視線にはこれといった感情は浮かんではおらず、稜はだんだんと自分が透明になってゆく気がした。
 彼女が実際に見ているのは稜ではなく、稜の後ろにある襖に描かれた竹林なのではないかとすら思った。

「少し、外に出ましょうか」

 暫くしてからふいに、駿河菖蒲が言った。

 長く奇妙な沈黙に浸りきっていた稜は一瞬、駿河菖蒲の言った言葉の内容を上手く理解出来なかった。
 駿河菖蒲が音もなく立ち上がって縁側に降りたのを見たところでやっと言葉の意味が掴めた稜は、彼女の後を追って庭に降り、先をゆく駿河菖蒲の後を追う。

「先ほど会長のされた話を、全て真に受ける必要はありません」
 きちんと手入れされた庭を蛇行するように作られた石畳の細い道をゆっくりと進みながら、駿河菖蒲は言った。
「あのお話は、余りにも論点がずれ過ぎていました。問題は、あんなところにはありませんのに」

「・・・論点や問題がどこにあろうと、何か変わりがありますか」
 と、稜は言った。
「どちらにしても、私に選択の余地はないのでしょう」

「きちんと納得して身を引くのと、無理矢理身を引かされるとでは、大きな違いになりませんか」
 と、駿河菖蒲は言った。
 そしてそこで足を止めてぐるりと振り返り、稜を見る。
「確かにあなたは、なるべく早い段階で身を引かれるべきだと思います。
 けれどその理由は、駿河会内部の軋轢などによるものではなく ―― 志筑さん、あなたの中にあるのです」

「・・・私の?」、と柳眉を寄せた稜が訊く。

 ええ。と駿河菖蒲は小さく、しかしきっぱりと頷く、「あなたは、極道の世界にいるべきでない方です」