7 : 愛さない選択
「・・・それはまぁ、そうかもしれませんね」
微かな苦笑と共に、稜は言った。
確かに2年前まで、稜は自分がヤクザの世界と係わり合いになるなど想像したことすらなかった。
いや、正直に言って今でも、自分の置かれている状況の方こそを夢のように思う時がある。
恐らくそんな自分の自覚のなさは、この世界にどっぷりと浸かって生きている人間からすれば酷く異質に映るのだろう、と稜は思う。
今日ここに来る際の出来事に代表される稜の言動を見て、俊輔やその周りの男たちが心底驚いたり呆れたりしているのを、稜は前々から知っていた。
だがそもそも稜としては“あなたは極道の世界に似つかわしい”などと言われても、当然のことながらちっとも嬉しくはないのだ。
稜がこの世界と係わり合いになったのは、俊輔がそこにいたからに他ならない。
俊輔に対する自らの気持ちは未だ掴み切れてはいないものの、相手が俊輔でなければこんなに深入りはしなかったに違いないという確信だけは、はっきりとして稜の中にある・・・ ――――
「そういう意味ではありません」
苦笑を浮かべた稜の思考を読みとったかのように、駿河菖蒲が言った。
何故だろう、彼女の声にはどこか哀れみのような色が漂っており、それに気付いた稜ははっとして顔を上げる。
「私は極道の家に生まれ、極道の世界しか知らずに生きて参りました。
その中で数多の人間の生きざまと、死にざまをこの目にして来ました」
顔を上げた稜と視線を合わせた駿河菖蒲は、静かに微笑む。
「男女を問わず、実に色々な方がいらっしゃいました ―― 良い方も、悪い方も、興味深い方も、つまらない方も・・・そして当然ですがその全ての方々がそれぞれ、様々な生き方と、死に方をしてゆかれた。
しかし私がその中で学び取ったことはひとつだけです。たった、ひとつだけ」
「・・・それは、一体・・・?」、と稜は訊く。
「極道の世界に生きる男を愛してはいけない、ということです。何があろうと、決して」、と駿河菖蒲は答える。
駿河菖蒲がそう言った刹那、太陽に雲がかかり、さあっとあたりの景色全体に灰色の影がかかった。
その中で返す言葉を失った稜は、無言で立ち尽くす。
ほんの数秒で雲は流され、辺りは元通り春の初めの柔らかな日差しが戻って来たが、それでも稜は何も言えなかった。
やがて遠くで鳥が一声声を上げ、それと同時に駿河菖蒲は稜に背を向ける。
曲がりくねった道を進んでゆくその後ろ姿を、稜は引き続き、無言で追った。
「麗子さまとのいきさつは、聞きました」
今が盛りと咲き乱れる白木蓮の大木の下を過ぎたところで、駿河菖蒲が言った。
「志筑さんは私を、麗子さまと同じように見ていらっしゃるのではありませんか」
「・・・そうですね」
薄い青の空と白木蓮の花をいっぺんに見ながら、稜は言った。
「全て同じとは言いませんが、油断が出来ないと言う点では同じだと思います」
「正直な方ね」
駿河菖蒲はそこで、軽く声を上げて笑った。
「それでは私も、正直に言いましょう。
私としては俊輔さまと結婚することに異存はありません。先に言った通り、相手を愛さないと決めてしまえば、誰と一緒になっても同じですから。
もちろん、尊敬はします。生活を共にする中で、情が湧くこともあるでしょう。それでも私は、あの方を愛することだけは決してしない。
ですから極道の男の方の常で、俊輔さまが今後幾人愛人を持たれようと、私は構いません。例えその中に、男の方がいらしたとしても。
でも ―― 志筑さん、あなたは違いますね」
そう言った駿河菖蒲は、再度ぴたりと歩みを止めて振り返り、稜を見た。
駿河菖蒲の確信に満ちた強い視線と、決めつけるような声音。
内臓という内臓に、突如強い圧力をかけられたような感覚を覚え、稜は声もなく喘ぐ。
駿河菖蒲はそんな稜の様子には構わず、容赦なく続ける。
「あなたはもうすぐ、私の伴侶となった俊輔さまを待つ生活を送らねばならなくなります。
お二人の気持ちに変化がなければ、生活は今と何ら変わりはないでしょう。俊輔さまは状況がどうあれ、私ではなくあなたの元に帰られるでしょうから。
私としてはそれでも一向に構いませんが、あなたはそれならそれで構わないと思える方ではいらっしゃらない。それを分かっているから、俊輔さまはこの結婚話を何とか回避しようとしていらっしゃる。
しかし現状のままでは俊輔さまがどう抵抗しようと、私との結婚は避けられないのです」
そこで駿河菖蒲は数歩、道を戻って稜のすぐ目の前に立ち、稜の両目を深く覗き込んでくる。
黒目がちの駿河菖蒲の瞳には、深淵のような闇がたゆっていた。
それを見下ろしているうちに稜は、その深淵の奥底に、何か読みとるべきメッセージが秘められているような予感を覚える。
が、どんなに目を凝らしてみても、闇の彼方にある文字列は読みとれない。
それは行き交う電車の片方から、もう片方の行き先表示を確認しようとする努力に似ている気がした。
そこに表示されているのは知っている駅名であり、うっすらとだが文字の形も分かる。
しかし肝心の駅名が、どうしても読みとれないのだ。
「俊輔さまの元に留まれば、あなたは酷く辛い思いをすることになるでしょう」
駿河菖蒲は言い、そこでつと目を伏せた。
その後再び上げられた駿河菖蒲の視線の奥から、メッセージは消えていた。
「そしてそんなあなたの気持ちを慮った俊輔さまも、辛い思いをなさる。それを察してあなたは、更に辛く、果てには怒りすら覚えることになる ―― そんな負の歯車に組み込まれる覚悟が、志筑さん、あなたにありますか?」
「・・・それは ―― そんなのは ―― 分からない、今は・・・、でも・・・、そもそも・・・」
と、稜はたどたどしく答えようとする。
「私は先ほど、志筑さんは身を引くべきだと申し上げました」
駿河菖蒲は稜の答えを最後まで聞こうとせずに、言う。
「しかしもし志筑さんが今言った全てのことを受け入れ、自らの願いや葛藤を押し殺し ―― 俊輔さまの負担にならないよう最大限の努力をすると誓うのであれば、話は別です。志筑さんが俊輔さまの元にいられるよう、私が会長を説得しましょう。
それが無理だと思うのであれば、半年から一年ほど、東京を離れて下さい。
当然ですが後者の場合、志筑さんにも都合がおありでしょうから、それ相応の準備期間は設けます。その点はご心配なきよう」
そう言って駿河菖蒲が口を閉ざした後も、ずっと、稜は答えられなかった。
どうすれば良いのか、自分がどうしたいのか ―― 思考回路の全てが麻痺したように痺れきっていて、何も考えられない。
それは分かっていたのだろう、駿河菖蒲はすぐに答えを求めようとはしなかった。
「 ―― この並木道に沿って進むと、元の部屋に戻れます」
駿河菖蒲は真っ直ぐに右手を上げて、これまで2人が歩んできた小径とは別の、大きな木が両脇に立ち並ぶ道の先を指さした。
そして少し間をあけてから、
「今のお返事は1ヶ月ほど後に伺いに参ります。それまでに、ご決断を」
と、静かに告げた。
稜は黙って頷き、駿河菖蒲も同じように頷いた。
それから駿河菖蒲は挨拶もせずに踵を返し、ゆっくりとした足取りで、曲がりくねった小路を奥へと進んでゆく。
その姿が木々や植木の向こうに見えなくなるのを見送ってから、稜もその場を後にした。