8 : 唯一無二の望み
佐藤要がその部屋の入り口に姿を現した時、そこは酷く剣呑な空気に満ちていた。
部屋の中央に据えられた豪奢な応接セットには、駿河会のナンバーツーの地位に着く御堂栄治(みどうえいじ)と俊輔が、殆ど睨み合うような格好で向かい合っており、俊輔は入ってきた佐藤要を見ても挨拶どころか、頭すら下げようとしなかった。
テーブルを挟んで俊輔の前に座る御堂栄治は俊輔のその様子を見て激しく眉根を寄せ、口を開きかけた。
が、佐藤要はそれを視線で止める。
「今日何の用で呼ばれたか、その理由はもちろん、分かっているだろうな」
6人掛けの応接セットの、一番の上座に腰を下ろしながら、佐藤要が言った。
俊輔はきつく唇を引き結んだまま何も答えようとせず、佐藤要は深いため息をつく。
「いいか俊輔、あの男 ―― 志筑稜と言ったか、あいつのことだが・・・」
「彼に手を出したら」
佐藤要の方を見もしないまま、俊輔が地を這うような声で言う。
「何もかもが、そこで終りだ。脅しじゃない」
「・・・まぁ、そう熱くなるな」
苦笑と共に、佐藤要が言う。
「駿河麗子が去った今、ここはお前にとってもその関係者にとっても、危ない場所ではなくなった筈だ。
彼に何かなど、起こるはずがないだろう」
佐藤要の口調にはどこか、荒ぶるものを宥めようとするような雰囲気があったが、俊輔は頑なに空を睨んだまま答えなかった。
再び佐藤要は苦笑し、俊輔の前に座る御堂栄治はどうしようもない奴だと言わんばかりに首を横に振る。
「時に俊輔、菖蒲との話だが」
「あのお話でしたら、お断りしたいとお伝えしたはずです」
「そういう訳にいかんだろうが。
それは誰よりも、お前が一番分かっているはずだ」
厳しい声で佐藤要は言い、テーブルの中央に置かれたシガレット・ケースの蓋を開けて両切りの葉巻を取り出した。
そしてその先を幾度かテーブルに打ちつけるようにして整える。
俊輔が動こうとしなかったので、御堂栄治がシガレット・ケースの隣に置かれたライターを取り、その先に火を点けた。
辺りにはすぐに濃厚な葉巻の香りが漂い、佐藤要は暫く、ただ黙々と紫煙を吸い込んでからゆっくりとくゆらせる作業を続けていた。
その間、俊輔も御堂栄治も何も言わなかったので、部屋には葉巻の香りと同じくらいの濃厚な沈黙が流れる。
「お前に望みをかけている人間がどれだけいるか、その為にどれだけの犠牲を払ってきたか・・・今更知らないとは言わせんぞ」
やがて沈黙を破った佐藤要が低く言い放ち、激しい所作で手にした葉巻を灰皿に押しつける。
「お前を頂点とした組織を盤石にする為には、菖蒲との結婚は不可避だ。何故ならそれは組織を束ねる上で絶対的かつ強力な楔になるからだ。
これは何年も前から決められていたことで、お前もそれは承知だった筈だろう。最後の最後で、全てをひっくり返すつもりか」
「 ―― もし、そうだと言ったら?」、と俊輔が挑戦的に言う。
「言わせないし、言ったとしても聞く気などない」、と佐藤要が断定的に言う。
そこで俊輔はその日初めて、視線の照準を佐藤要に合わせた。
佐藤要は平然とした様子で俊輔の鋭い視線を受け止めつつ、シガレット・ケースから2本目の葉巻を取り出す。
「菖蒲とは結婚してもらう。何があろうと、絶対にだ」
手にした葉巻を右手の内で弄びながら、一つ一つの単語を強調するように、佐藤要は言った。
「あの男が結婚を躊躇う理由になるというのなら、あれはきっぱりと切って捨てろ。
お前の側にいたいと願うものはこの先、いくらでも出てくる。なにも今からひとつのものに拘ることはない」
「 ―― あなたたちは、いつもそうだな。
自分たちに必要がないと判断したものは、本人の気持ちなど考えもせずに一方的に切り捨てろと言う」
吐いて捨てるように、俊輔は言った。
「それは当然だろう。
いいか、我々には全国に広がる組織を守る義務があるんだ。必要のないものにかかずらわっている暇などない」
そこで佐藤要に代わって口を開いた御堂栄治が、噛んで含めるように言った。
「必要があるかないかは、当人が決めることであって、他人が決めることじゃない」
「そこらの一般人であれば、それはそうだ。
だがお前は駿河会の三代目会長となる男なんだ。一般人と同じ土俵で話が出来る訳があるまい」
と、御堂栄治が言い、俊輔はむっつりと黙り込む。
そんな俊輔の方へ小さく身体を乗り出すようにして、御堂栄治は続ける。
「愛人を何人持とうがそれは構わないと、何度言えば分かるんだ。
我々はただそれを、菖蒲さんとの結婚とは別の所で考えろと言っているだけだ ―― それを嫌だなどと言い出すから、切り捨てろという話になる。
どうしてそんな頑なにらなきゃならない?」
「愛人なんかいらない」
呻くように、俊輔が言う。
その声にはどこか、切羽詰まったような響きが漂っていた。
「俺はこの10年間、あんた達の言うとおり、思うとおりに動いてきた筈だ。それなのに、唯一欲したものすら傍に置くことを許されないのか?
それなら俺は、会長になどなりたくない。そもそも俺はそんなものになりたいと思ったこともないし、なりたいと言った覚えもない。会長の地位を欲する奴が他にいるのなら、そいつに何もかもくれてやる・・・!」
引き攣れたような声で俊輔が叫び、その後、部屋には三度の沈黙が流れる。
誰もが押し黙ったまま何も言わず、沈黙は永遠に終わらないのではないかと思うほどに長く続いた。
その長い沈黙の果て ―― 唐突に、佐藤要が喉を反らして笑い出す。
それは余りにも、その場には不釣り合い過ぎる笑いだった。
表情こそ変えなかったものの、俊輔を取り巻く雰囲気にどこか不安めいた影が射す。
「いや、失敬」
こみ上げる笑いを抑えるような素振りと共に、佐藤要が言う。
「しかし、“血は水よりも濃い”とは、よく言ったものだ ―― なぁ御堂、そうは思わないか?」
「・・・そうですね、確かに」
小さく肩を竦めて、御堂栄治が頷く。
「・・・何の話だ」
無表情に、俊輔が訊く。
「“血は水よりも濃い”という話だ。
お前は本当に、驚くほど父親にそっくりだな、俊輔」
心底面白そうに佐藤要は言い ―― 再び小さく声を上げて、笑った。