16 : 夢じゃない
目を開けて、まず最初に見えたのは、のっぺりとした白い天井だった。
辺りは静かで、淡い陽の光に満ちている。
これは夢だろうか、と思ったが、もうずっと、随分永いこと、こんなに静かな夢を見たことはなかった。
幾度か、瞬きをしてみる。
もしかしたら何かの拍子に目の前に広がる画像が切り替わってしまうのではないかと考えたからだが、閉じた目を開ける度に怖かった。
美しい光に満ちた世界こそが、残酷な夢なのではないかと ―― 目を開けたらそこには再び、暗黒の世界が戻ってくるのではないかと思ったのだ。
だが幾度瞬きを繰り返しても、目を開けたそこに広がる世界は変わらなかった。
あの世とか、天国とか、そういう場所なのだろうかとも思ったが、それにしてはそこは現実的に過ぎる気もする。
むろん天国に行った経験はなく、天国にある建築物の天井にモルタル資材が使われている可能性がないとは言い切れない。
しかし朦朧とした最後の記憶の中で、相良の声を聞いたような気がした。彼の声と、手の感覚と、そして ―― あの雰囲気。
同じ遺伝子を持つ者の、似通った気配。かつても一度、その色濃い類似性に息をのんだ。誰よりも、何よりも、再び、一瞬でもいいから会いたいと願った、彼の気配。
今いる世界が、あの記憶と繋がるのだとしたら、ここは・・・、・・・ ――――
起きあがろうとしたが、どうにも身体が重かったので、仕方なく、そっと視線だけを動かして辺りの様子を窺ってみる。
まず目に入ってきたのは、足下の向こうの壁に背中を凭れさせ、腕組みをして俯いている、永山の姿だった。
その斜め横の壁沿いに据えられた長椅子には、三枝が座っている。
少し前屈みになった彼は、両膝の間で組み合わせた自分の手を、厳しい目で見下ろしていた。
そしてその三枝の向かい ―― ベッドを挟んだ向かいの窓辺に、俊輔が、立っていた。
窓の外に広がる景色を感情の篭らない目つきで眺めている俊輔は、何だか酷く年をとって見えた。
そんな俊輔の横顔をベッドの上から眺めてみて、稜は知る ―― その昔、人は生まれ落ちた瞬間から1年を過ぎる毎に、定期的に年をとってゆくのだと、単純に考えていた ―― しかしある意味それは、間違っていたのだ、と。
いや、むろん、そういう年齢の重ね方もあるだろう。
もしかしたら世の中の多くの人々は、そうして年をとってゆくのかも知れない。
けれど、そうではない場合もあるのだ。
1年毎にではなく、そんな単純なものではなく ―― こうして唐突に、一瞬にして、がくんと年をとる場合もあるのだ。
切なかった。苦しいほどに、切なかった。
俊輔が既に、耐えうる限界を超えるほどの辛い思いをしてきていることを、もう稜は知っていた。
出来ればこれ以上彼が苦しむことがないようにと、この数年間、無意識のうちに祈ってきた気すらするというのに、それなのに・・・、俊輔・・・ ――――
心の中だけで稜が呼び掛けた、その声なき声に反応したかのように、俊輔が振り向いた。
そして目を開いている稜を見た俊輔の淀んでいた目に、さっと光が走る。
同時に俊輔に加算されていた年齢の圧力が、ふっと軽減するのが分かった。
ゆっくりとベッドの脇にやってきた俊輔は何を言うより先にまず、上げた右手の指先を、稜の唇にそっとかざした。
まるで稜がきちんと呼吸をして、生きていることを、確かめるように。
それからその指先が稜の頬を辿り、手のひらが頬を包み込むようにする。
「・・・もう、会えないのかと思った、・・・」
呟くように、稜が言った。
「そうか?俺は絶対に会うつもりでいたけどな」
お前はまだまだ甘いな、とばかりに、俊輔が言った。
そのいつもと変わらない ―― ように取り繕われた ―― 傍若無人な物言いに、稜が小さく笑った。
が、それはほんの一瞬で、次の瞬間に稜は激しく顔を歪めて半身を起こす。
痙攣するように身体を震わせた稜が、ベッド脇に置かれた銀色のトレイに、吐いた。
だがその身体には、吐くものなど何も残されていなかった。
唇から吐き出されるのは空気ばかりで、胃液の一滴すら出てこない ―― 一番苦しい吐き方だ。その身体が機械で絞り上げられているのを、成す術もなく見ているようだった。
幾度も身体を痙攣させて嘔吐する稜の、筋肉が凝り固まったようになっている背中を、俊輔はゆっくりと上下にさすり続ける。
そうして支えた稜の身体は、2週間ほど前よりもひと周りもふた周りも、小さく縮んでしまったように思えた。
首も、肩も、腕も、少し力を入れただけでいとも簡単に、ぽきぽきと折れていってしまいそうに見えた。
「すまない ―― 全部・・・何もかも、俺のせいだ・・・、・・・」
ようやく痙攣が収まり、荒い呼吸を繰り返す稜の胃の裏側に手を添えた状態で、俊輔が呻くように言った。
そしてぎこちなく身を起こした稜の口元を濡らしたタオルで拭い、その身体を壊れやすく貴重な陶器を扱うような手つきでベッドに横たわらせる。
そうして横たわったベッドの上で力なく息を吐いてから、稜は冷たい目で上から下まで一往復するように俊輔を見やり、
「“何もかも俺のせい”って、じゃあつまり俺に対してあんなことをしろと命令したのは、お前だったのか」
と、訊いた。