Night Tripper

3 : 捨てきれないプライド

 身支度を整えた稜がマンションを出てみると、そこには辻村組の舎弟、皆川洸太(みながわこうた)が立っていた。

「志筑さん、・・・っす!」
 稜の顔を見た皆川はがばっと頭を下げ、威勢良く言った。

「・・・ ―― おはよう」
“っす”というのは、“おはようございます”の意味なのか、彼らが昼夜区別なく使う“お疲れさまです”の意味なのか、はたまた同じ“お疲れさまです”でも稜が本当に疲れているように見えたから言っているのか ―― どうにも気になるところだな、と思いながら、稜は言った。

 気になるといえば、皆川のスーツの着方やネクタイの締め方は何年経っても相変わらず妙だった。
 普段彼は俊輔が仕事の際に使う車の運転を担当している為、稜と会うことは滅多にない。
 だが見かける度、稜は彼のそのちぐはぐな印象が、神経症的に気になって仕方なかった。

 家を出る時間がいつもより早かったため、稜は手にしていたブリーフケースを足下に置き、皆川のネクタイを結び直した。そしてついでに、スーツの歪みを軽く直してやる。

「・・・ありがとうございます」

 少し身体を引き、皆川の姿を確かめるように眺める稜に、皆川が嬉しそうに言った。

「いいよ ―― ところで皆川くんと会うのは久々だな。今日は皆川くんが送ってくれるのか?」
「や、志筑さんの車は別のが下に来てるっすよ。
 俺は組長の送迎で ―― 組長、まだっすかね?そろそろ出る時間なんっすけど」
「・・・俊輔ならまだ寝てたよ」、と稜は言った。
「え、マジっすか・・・どうしようかな」、と皆川はあぐねきったように言った。
「起こしてくれば?」、とドアを指さして、稜は言った。

 稜としては何気なく言ったのだが、皆川はぎょっとした顔をし、空中に滅茶苦茶な図形を描くように両手を動かした。

「とんでもない、このマンションには、誰も入っちゃいけないことになってるんっすよ」
「なんだそれ、現に俺は入ってるじゃないか」
「もちろん志筑さんは別っすけど、とにかくここには永山幹部や三枝幹部すら、入ったことないはずっすよ」
「ふぅん・・・、よく分からないけど、じゃあ起こしてきてやるよ」
「ほんとっすか。助かります」
 皆川の言葉を背中に受けてドアを開けたところで、稜は一瞬動きを止めてから振り返り、
「あのさ、ところで皆川くんって今、何歳なんだ?」
 と、訊いた。
「え、俺っすか?今年30になりますけど」
 と、皆川は答えた。
「30にもなるなら、もうスカスカ言うのはやめた方がいいんじゃないのか」
「“スカスカ”って、なんっすか? ―― あー、・・・」

 言ってみて稜の指摘内容を理解したのだろう、皆川は困ったように笑って後頭部をかく。
 小さく肩を竦めただけでそれ以上何も言わず、稜は部屋に戻った。

「おい俊輔、起きろよ。皆川くんが外で待ってるぞ」

 ベッドの脇に立って声をかけた稜を、俊輔は薄目を開けて見上げ、次にベッドサイド・テーブルの上の時計の針を確認する。そしてベッドの上で思い切り手足を伸ばした。

「・・・もうこんな時間か・・・、あと1、2時間は起きたくない・・・」
 俊輔はぶつぶつと学生のような愚痴をこぼし、それからにやりと笑って稜を見る。
「キスしてくれたら、目が覚めるかもしれないけど」
「・・・代わりに蹴飛ばしてやろうか?」
 腕組みをした稜が、厳しい表情と声で言った。
 それを聞いた俊輔は楽しそうに声を上げて笑い、身体を起こす。

「ったく、お前ほど夜と朝の違いが顕著な人間は、滅多にいないだろうな」
「・・・何も違わない、俺はいつも同じだ」、と稜は顔をしかめて言った。
「知らぬは本人ばかりなり、ってな。つい何時間か前の自分と、今の自分とを鑑みれば ―― 」
「それ以上、下らないことを言い続けるつもりなら、本気で蹴り飛ばすぞ」
「はいはい、分かりましたよ ―― ああ、そうだ、稜」
 会話の途中で部屋を出て行こうとした稜の後を欠伸をしながら追い、俊輔が言った。
「今週中に一度、赤坂に来てくれってさ」
「・・・誰が?」
「三枝」
「・・・、またかよ・・・」

 廊下の途中で思わず足を止め、稜は盛大なため息をついた。
 本気で嫌そうな口振りを聞いた俊輔は薄く笑い、稜だけを廊下に残して洗面所に入る。

「最近、呼び出されたのか?」
「つい昨日な ―― 聞いてないのか?」
「んー、聞いてないが、三枝の考えなら読める」
 歯ブラシを口にくわえたまま、俊輔は言う。
「何だ?」
「いい報告しかしたくないんだろ、特にお前に関しては」

 それはつまり裏を返せば、いい報告をしてみせると三枝が考えていることになる ―― そう思った稜は、長い長いため息をつく。

「 ―― お前が駿河会のトップに立ったら、そんなに危ないことになるのか?」
「それは分からない」
 躊躇いがちな稜の問いに、俊輔はあっさりと答えた。
 そして丁寧に口を濯ぎ、前髪から滴る水をタオルで拭いながら、稜に向き直る。
「以前も言ったが、危ないことは常にある。それは今でもそうだが ―― 俺が駿河会会長になった後どうなるか、ちょっと予測が出来ない。
 ただ何にせよ、関わる人間が鼠算的に増えてゆくことだけは確実で、そうなれば当然、予想しないことが起きる可能性も増える。その予想外のことがお前に向かないか、俺たちはそれを心配しているんだ」

 稜は何も答えなかった。
 腕組みをしたままきつく唇を噛んで考え込む稜の前をやり過ごし、俊輔は洗面所の斜め向かいにあるウォーク・イン・クロゼットに入ってゆく。
 そしてその中から、話を続ける。

「でもまぁとにかく、この件に関しては俺から三枝に言っておいてやる。今週赤坂に来いって話は、忘れていい。
 だがタイム・リミットは今年いっぱいだ。それまでに諸々の整理をして、会社は辞めろ」
「・・・選択肢はないって訳か。そんな短い期間で、決心をしろと?」
 ちらりと腕の時計を確認してから ―― このままでは会社に着くのは通勤時間帯にかかってしまいそうだったが、途中でやめられる話ではなかった ―― 稜は姿の見えない俊輔に向かって言った。
「どこが短いんだ、年末までにはあと半年近くあるじゃないか。心を決めるのに3ヶ月、身辺整理をするのに3ヶ月 ―― 十分だろ」

 きっぱりと言い切った俊輔が、クロゼットから出てくる。
 あっと言う間にきっちりとしたスーツに着替えた俊輔から、稜は無言で顔を背けた。

 怒っているのではなかった。
 そんなところは通り越して、呆れ返る気分だった ―― 返事をする気にもなれない。

 俊輔はそんな稜の顎を軽く捉えて上向かせる。
 そして言う、「いいな、年末までだ。それ以上は待てない」

「・・・考えておく」
 顎に添えられた俊輔の手をぞんざいなやり方で外し、稜は言った。
「年末までにな」
 払い退けられた手を稜の背中に置きながら、俊輔は言った。