21 : 見えない傷痕
道明寺の最初の診断よりも稜の回復には時間がかかり、結局稜が品川のマンションに戻れたのは、三枝が組に戻ってきてから数週間後のことだった。
とにかく規則正しい生活をさせなければならない、
1日3食の食事をきちんととらせ、
毎日遅くとも夜の10時には寝るようにさせ、
そして朝も決まった時間に起きるようにし、
薬を決められた通り、きちんと服用させるように、・・・ ――――
その他諸々、道明寺は俊輔に対してそういった細かな指示を何度もしつこく、繰り返し言った。
むろん24時間厳密に監視している必要はないが、そういう生活をきちんとしているかどうか、他人が見ていてやる必要があるのだ、と。
そして自分がいいと言うまではそういう生活を稜にさせ続けるように、とも言った。
神妙な顔で俊輔は頷いたが、稜は俊輔にいちいち言われなくとも自発的に道明寺が言ったように行動していた。
俊輔が家を空ける際には幹部や舎弟がなるべくさりげないやり方で稜を見ていたが、稜には特別、以前と違う部分は見られなかった。
こういった場合に予測されるようなこと ――
ものを食べなくなったり、
眠ら(れ)なくなったり、
逆にやたら眠り続けたり、
夜中に錯乱して飛び起きたり、
感情的になって泣き叫んだり、・・・・・・
そういう様子は、稜には一切見られなかった。
冗談めいたことを言われればきちんとそれなりの反応が返ってきたし、クールで緊張感のある物言いも以前と何ら変わりはなかった。
余り笑うことはなかったが、元々稜はにこやかな方ではなかったし、あんなことがあってそう時間が経っていない今の状態で、それは致し方ないことであると思われた。
三枝が改めて、会社を辞める手続きをとっていいですね。と確認した際にはあっさりと同意したが、それも不思議ではなかった。
金山はもういないとはいえ、あんな事件の引き金になった場所に戻りたいと思う人間は、まずいないだろう。
それに余り突っ込んで確認して、見たところ落ち着いている稜の神経を逆撫でるのも躊躇われた。
大きな変化の見受けられないそんな稜の様子を見た関係者は、一様にほっと胸をなで下ろす心地がした。
むろん稜が傷ついていないのだとか、例の一件が全く堪えていないのだなどと考えていた訳ではない。
そんな軽々しい出来事でなかったことは、誰もが重々承知していた。
だが ―― だが当然ながら、もっと酷いことになっても、おかしくはなかったのだ。どんな酷いことにも、成り得たのだ。
金山が言った“通常であれば精神が保たない”という行為に、想定以上の期間晒され続け ―― ともすれば命を失ってしまってもおかしくはなかった。
そんな状況を経て、すぐにそれと分かるほどに精神が壊れてしまっていないのは、正に奇跡と言えた。
そうして1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎる頃には誰もが、流石志筑さんだ。と口を揃えて言った。
あの金山の異常なやり口に晒されてまともに戻って来られる者など、百戦錬磨の極道であってもそうそういない。
実際に金山の拷問を受け、一生精神病院から出られないような状態に陥っている人間は、1人や2人ではないのだ。
元来精神的に過ぎるほどタフで、意志が強固で、あらゆる意味で簡単に揺らがない稜だからこその、今のこの状態なのだと誰もが感嘆する思いで稜を見ていた。
そんなある日 ―― ふいに、何の前触れもなく、道明寺医師が辻村組の組事務所に姿を現した。
「・・・一体何事なのですか、これは ―― 」
ノックもせずに組事務所奥にある組長室のドアを開けた道明寺を見て、三枝が眉を寄せて問い質した。
そんな三枝の糾弾の視線に、道明寺を案内してきた ―― むしろ先導しているのは道明寺、という状態であったのだが ―― 舎弟が首を竦める。
当然ながらこの事務所には、関係者以外の人間が許可なく入って来ることなど許されない。
だが道明寺は昔から長く怪我をしたり体調を崩したりした駿河会関係者の治療に当たっていたため、そこらの舎弟などより顔が効く。
そういう背景を持つ道明寺を強引に押しとどめることが、若い舎弟には出来なかったのであろうが ―― それにしても今日の道明寺の様子はおかしかった。
道明寺がこんな風に組事務所奥にまで押し入るように入ってきたことなど、これまでに一度もない。
いや、そもそも道明寺は駿河会関係団体の事務所を訪れることを、頑なに拒否していた。
自分は飽くまでも一般人であり、駿河会関係者の治療をするのはやぶさかではないが、用があるならそっちから訪ねてこい。というのが道明寺のこれまでのスタンスであったのだ。
「・・・まさか、稜に何か・・・?」
組事務所の奥のデスクに座っていた俊輔が、立ち上がりながら訊いた。
道明寺は答えず、厳しい顔をしたままつかつかと俊輔に近づいてゆく。
反射的に臨戦態勢に入った幹部たちには目もくれず、俊輔の前に立った道明寺が訊く、「この前品川に帰ったのは、いつになる?」
訊ねられた俊輔は、思いがけない問いかけに一瞬虚を突かれるように黙ってから答える、「・・・一昨日」
「それ、ほぼ一昨々日のことなんじゃないのか」
俊輔の回答を聞いた道明寺がぎゅっと眉間に皺を寄せて訊き、それに対して俊輔は答えない。
道明寺はため息をつき、うんざりとした雰囲気で首を横に振った。
「あのな、確かに俺は“定期的に家に帰れ”としか言わなかった。だがそれは1日おきとか、2日おきとか、3日おきとか ―― そういう意味で“定期的”と言ったんじゃない。ほぼ毎日、きちんと帰れるかという意味で言ったんだ。
そんなことまでいちいち言葉にして指図されなきゃ分からないのか、右も左もはっきりしないような、おしめもとれないガキじゃあるまいし」
道明寺が淡々としていながらも馬鹿にしたような口調で言い、組事務所には剣呑な沈黙が流れる。
「 ―― 道明寺先生・・・、誰に向かって口を利いているのか、分かっていますか」
沈黙を破って、三枝が訊いた。
三枝の口調は友好的とかいう世界からは程遠いものであり、周りの幹部たちの視線も同様であった。
だがそれを気に留める様子なく、唇の左端だけをねじ曲げるようにして笑って見せた道明寺が、
「ああ、もちろん、分かってる。あんたらが分からないというのなら、はっきりきっぱり言ってやる ―― 俺はあんたに言ってるんだよ、辻村俊輔!!」
と、最後の1フレーズを怒鳴るようにして、言った。