24 : 冷たい温もり
何気なく俊輔が手を触れた瞬間に身体を震わせた稜はそのまま、ベッドの向こうに逃げ出そうとする。
だが恐らく道明寺が処方した薬の影響で ―― それとは言わずに、効き目の良い睡眠薬を出しておいたと、道明寺は言っていた ―― 深い眠りについていたのであろう稜の身体は、逃げだそうとする心に全くついてゆかなかった。
足をもつれさせ、ベッドの端から真っ逆さまに落ちてゆこうとする稜の身体を、慌てた俊輔が強く掴んで引いた。
だがその俊輔の手からも、稜は無言で逃げ出そうとする。
「 ―― 稜・・・!」
弱々しくはあるが必死な様子で抵抗し続ける稜の身体をベッドに押さえつけるようにした俊輔が、その名を呼んだ。
その瞬間、ぴたりと、稜の動きが停止する。
恐る恐る、といった調子で視線が上げられ、その目が俊輔を捉える。
前髪が乱れかかった稜の顔は、闇夜の中でもはっきりと分かるほど、蒼白だった。
「 ―― お前・・・、今日は帰れないって、言ってなかったか」
気まずい雰囲気が漂う沈黙を無造作に破って、稜が訊いた。
「・・・ああ、まぁ、ちょっと・・・、予定が、ずれてな」
低い低い声で、俊輔が答えた。
稜はしばらくそんな俊輔の顔を見上げていたが、やがて俊輔の胸についていた手を外し、
「・・・びっくりした」
と、どことなく自分に向かって言い訳するような口調で言い、そのまま俊輔に背を向けてしまう。
未だ薄く傷跡が残る稜の首筋とその後ろ姿を、俊輔は無言で、呆然として、眺めていた。
ショックだった。
怯えた稜の所作や、
無言の悲鳴のような吐息や、
小さく震えていた白い唇や、
限界まで血の気が引いた顔色や・・・ ――――
それらを目の当たりにしたことももちろん、ショックだった。
それは当然だ。
だがそれよりも何よりも俊輔に衝撃を与えたのは、目の前にいるのが俊輔だと分かった瞬間、稜が反射的に、しまった、という表情を顔に浮かべたことであった。
これ以上はないほど、限界を超えて貶められ、傷つけられた稜が、自らの傷が癒えぬうちに ―― 未だ血を流しているような状態でいるにも関わらず、そのことで俊輔がこれ以上傷つかないようにと必死になっている現実。
透明な手で横っ面を思い切り、張り飛ばされたような気がした。
道明寺があれほどまでに激しく怒るのも、至極当然であった。
一見そっけなく冷たく見える稜の、決してそればかりではない内面の沁み入るような優しさを、もちろん俊輔はきちんと理解しているつもりだった。
しかしまだ分かっていないのだ、と俊輔は悟る。自分はまだ、これっぽっちも、稜のことを理解出来ていないのだ・・・ ――――
強い自責の念を抱きつつ、俊輔はゆっくりとベッドに横たわりながら稜を引き寄せ、背中からそっと、柔らかく、その身体を抱いた。
眠ってしまったのかと思うほどに長い時間が経った後、稜が不意に言う、「お前さ・・・、見たんだろう」
主語はなかったが、むろん何を訊かれているのか分からないはずもなく、俊輔が答える、「ああ、見たよ」
「・・・それで ―― 何とも思わないのか」
一瞬の間を空けて、稜が訊く。
「お前、何を言ってるんだよ?何とも思わない訳がないじゃないか」
呆れたように、俊輔が言う。
「果てしなく控えめに言って、もの凄くむかついたね」
そのどこまで真面目なのか判断がつきかねる回答を聞いた稜が、小さく首を曲げて俊輔を見上げる。
見下ろす俊輔の顔には、表情と呼べるような表情は浮かんでいなかった。
稜はその奥にある(はずの)俊輔の気持ちを推し量ろうとするかのように、じっと俊輔を見つめ続ける。
この1ヶ月ばかり、稜は俊輔に触れられるのを嫌がりはしなかった。
しかしただ触れる以上の接触を激しく拒む空気が ―― それ以上は入ってくるなと、もう二度と、誰にも、なにものにも、乱されたくないのだという無言の拒絶の色が、稜にはあった。
だが今日の稜からは、そういった雰囲気は感じられなかった。
俊輔はそっと上げた手を稜の顎にかけ、さらにその身体を抱き寄せる。
抵抗はなく、それを確認してから、俊輔はゆっくりと、その唇に唇を重ねる。
薄く開かれた稜の唇の間からその吐息を吸い込み、稜の身体の温もりを腕で、唇の温もりを唇で、俊輔は感じた。
しかし ―― それだけだった。
かつて ―― 一番最初の、あの滅茶苦茶な始まりの時ですらそこにあったものが ―― そしてそこからゆっくりと積み上げるように育てていったはずのものが ―― ほんの1ヶ月ほど前までは確かにそこにあったはずのものが ―― そこから根こそぎ、消え失せていた。
感じる温もりすら、固く冷たく、凍り付いていた。
冷たい温もり ―― これほどまでに哀しいものがこの世に存在することを、俊輔は知らなかった。想像したことすらなかった。
口付けたのと同じ速度で唇を離してみると、稜は最初の時のまま、目すら閉じていなかった。
「 ―― ごめん、俊輔」
やがてぼんやりとした目つきと口調で、稜が言った。
「俺がお前にしてやれることは、もう何もないんだ」
稜の言葉が空気中に放たれ、その音が鼓膜を打った瞬間、俊輔は強く、両目を閉ざす。
これが自分のしたことなのだ、と俊輔は思った。
金山と一緒に、この自分が、この手で、稜をこんな風に壊してしまったのだ。
よく考えた方がいい、と道明寺は言ったが、よく考えたり、悩んだり ―― そんな悠長なことをしている場合ではないことは明らかだった。
他の何を犠牲にしたとしても、腕の中にいるこの存在がこれ以上、一片たりとも傷ついたり壊れたりしないようにしなければならない。
これまでに感じたこともないような強い想いに裏付けされた決意を胸に、俊輔は目を開く。
そして先ほどの状態のまま自分を見上げている稜に向かって、俊輔は静かに、微笑んで見せた。