Night Tripper

25 : 肩を撫でる指

「ったく、つくづく策士だよな、お前は」
 と、俊輔は言った。

 言われている意味が掴めず、どことなくぼんやりとしていた稜の視線に力が戻り、その顔が小さくしかめられる。
 それを見下ろしながら、俊輔は続ける。

「つまりお前はそういうことを言って、俺が臆面もなくお前を口説き直すのを聞きたいんだよな ―― まぁ別に構わない、減るものでもないし、聞きたいのなら何度だって言ってやる。
 いいか、俺はお前がこうして俺の側にいてくれるだけでいいんだ。他に望むことは何もない。お前をこうして手元に置いておく為なら、俺は他の何を失ったとしても悔いたりはしない。この不確かなことばかりの世の中において、これだけは絶対だと言い切れる」

 揺るぎなく稜の視線の中心を捉えながら、俊輔はきっぱりと断言した。
 顔をしかめたままそれを聞いていた稜は、俊輔が最後まで言い切るか言い切らないかの内に曲げていた首を戻し、再び俊輔に背を向けようとする。
 それを腕に力を込めてさりげなく阻止しながら、俊輔が続けて言う。
「それに ―― 何も出来ないなんてのは、大いなる勘違いだ」

「・・・そうかな」
 身体に回される俊輔の腕を真面目に振り払おうとはしないまま、懐疑的な口調で、稜は言った。
「そうだよ」
 腕に込めた力を少し弱めて、断定的な口調で、俊輔は言った。

「実はな、昔・・・お前がうちから帰っていくのを見送りながらとか、そういう時に、母がよく言っていたんだ ―― “稜くんのことは、大事にした方がいいわよ” ―― 当時は、正直、何を言われているのかさっぱり分からなかった」
 と、言って俊輔は少し笑った。
「あの頃の俺にとってお前は、正直、理解の範疇を遙かに飛び越えた存在だった。お前ときたらもう、うんざりするほど真面目で、恐ろしく融通が利かなくて、果てしなく面倒くさい奴だったし・・・、まぁそれは今でも、大して変わっていないが」
「・・・何だよそれ。果てしなく面倒くさくて、悪かったな」

 憮然として稜は言い、強引に身体の向きを変え、俊輔に背を向けてしまう。
 今度は俊輔も、それを引き留めようとはしなかった。

「だが最近になってようやく、俺は母が何を言おうとしていたのか理解出来たように思う」
 と、俊輔は稜の後姿に向かって、言った。
「お前は俺にないものを、全て持っているんだ。俺が見過ごしたまま通り過ぎてしまうものごとをきちんと見て、その大切さを気付かせてくれる ―― 言葉でではなく、態度とか、行動とか、そういうもので。
 そういうことが俺にとって何よりも貴重なんだと、母は言いたかったんだろう」
「・・・例えば?」
 と、興味なさそうに、稜は言った。
「例えば ―― そうだな、例えば、あの男・・・父のこと」
 と、俊輔は言った。

 振り向くことはしなかったが、それを聞いた稜は内心、激しく驚かずにはいられない。
 再会してからこっち、俊輔は母親のことすらろくに口にしなかった。
 恐らくそこには思い出すのも辛い記憶があるのだろうと察していた稜は、殊更に尋ねようとはしてこなかった。
 だがそれ以上に、俊輔が父親について語ることはなかったのだ。
 それは再会して以降の話ではなく、出会った頃 ―― 高校生の時分から、一貫してそうだった。
 俊輔はまるで“父親”という単語自体を知らないかのように、その言葉を使うことすらなかった。

 稜の内心の驚きを知っているのかいないのか、俊輔は淡々とした口調で続ける。

「かつて俺は母が父の話をするたび ―― 本当に格好のいい人で、息が止まるほど魅力的で、泣きたくなるほど優しい人だったんだとか、何とか・・・、そういうことを言う度、鼻で笑い飛ばしていた。優しい男が愛した女をこんな目に遭わせたまま放っておくのかと、愛した女が生んだ子供に顔も見せないのかと ―― そういうことばかり言って、一度だって母の話にまともに取り合ったことはなかった。しかし今にして思えば、あれは俺がした最大の親不孝だったんじゃないかと思う。
 もちろん俺自身は決してあの男を許すことは出来ないし、あの男はやはりとんでもない人でなしだと思う。それはきっとこれからも、永遠に変わらない。だがそれはそれとして、母にとっての父は、格好がよくて、魅力的で、優しい男だったんだろう、それなら ―― それなら、もっと黙って、話を聞いてやれば良かった。今の俺ならそうすることが出来ると思う。もちろん何もかも、今更といえば今更だが、知らないのと知っているのでは物事の見え方が180度違ってくる。
 真実はひとつじゃない。自分の目で見たものだけが全てじゃない ―― お前と一緒にいるなかで、分かったことのひとつだ。他にもたくさんある。何も出来ないなんて、そんなことは絶対にないんだ。
 それに ―― それに、何も出来ないという話をするのなら、それは俺の方だ」

 熱に浮かされたような、囁くような声で俊輔はそこまでを言い、稜の肩にかけた手の親指で、そのラインをなぞった。

「 ―― 結局のところ、この俺の存在が周りの全ての人を不幸にしている。何もしない、出来ないよりも酷い。
 俺を生まなければ、母はあんな惨い殺され方をしなくて済んだんだ。お前だってそうだ、俺がいなければ ―― この世界に入った頃、色々とあった中で、もし、俺さえ、・・・」
「俊輔」
 坂を転げるような話し方で、そのままとりとめもなく続いてゆこうとする俊輔の言葉を、稜が鋭い口調で止める。
「それ以上言ったら、俺はもう二度と、お前とは口を利かない」

 そう言われて、俊輔は口をつぐんだ。
 そしてそれから長いこと黙ったまま、稜の肩口に触れさせた親指の先で、その場所に奇妙な図形を描いていた。