28 : 海溝の奥底で
そのような経緯があってからというもの、俊輔は可能な限り毎日、品川のマンションに帰って来るようになった。
それは俊輔が駿河会会長に就任した後も、道明寺が“肉体的にも精神的にも落ち着いてきたようだから、もう普段通りの生活に戻ってもいい”と俊輔に告げた後も、一切変わらなかった。
その激務ぶりを見た駿河会幹部達からは俊輔の身体を心配する声があがったし、その様子を側で見ている稜も心配して ―― 決して意地を張っているのではなく ―― “こんなことのために、そんなに無理をしなくていい”と言った。
それに対して俊輔は無言で笑うだけで、頑としてその生活サイクルを変えようとはしなかった。
稜が“こんなこと”と称した通り、時間を圧縮するようにして仕事を片づけた俊輔が家に帰って、稜の傍にいて、何か特別なことをする訳では、確かになかった。
稜と俊輔は一緒にいる間、ただただ、向かい合って ―― 時にはソファやベッドの上で、肩や身体を寄せあうようにして ―― 話をしているだけだった。
そう、2人の間には手つかずのまま放っておかれていた10年という空白の月日があった。
互いが知らない10年の間に起こったことの全てを話し合うには、当然ながらその2倍の月日がかかる。
だから他の何がなくとも、話すことにだけは決して事欠かなかったのだ。
それは深い深い海溝を、両手ですくった砂で丁寧に少しずつ、埋めてゆく作業に似ていたかもしれない。
苦しくなるほど悲しい話もあった。
思い出して思わず怒り直してしまうような話があった。
話す本人は淡々としているのに、聞いている方が憤るような話があった。
楽しい話や、聞くだけで嬉しくなるような話も、もちろんあった。
面白い話があり、苦しくなるほど笑いあうような話もあった。
他の誰かが聞いたら、そんなことまで話さなくても・・・。と眉を顰めるかもしれないような話も ―― その大部分が、俊輔の話に含まれているのだったが ―― 中にはあった。
しかしそれが例えどんな話であっても、稜も俊輔も互いに、隠し事の類は一切しなかった。
ほんの少し何かを隠しても、相手が敏感にそれを察するであろうことを、2人は良く理解していたのだ。
一方が語り疲れると片方が前回の続きから語り出す、といった具合にして続く語らいは、時には何時間にも及ぶことがあった。
だがどんな時であっても、俊輔が稜より先に眠ることは決してなかった。
俊輔は語り疲れ、聞き疲れた稜が瞳を閉ざし、深い眠りについたのを確認してから自分も眠りにつくのが常だった。
身体を重ねることは、もうなかった。
口づけすることさえ、なかった。
だがそんなことをするよりも遙かに深く濃密な交流が、その語らいの中には確かにあった。
そして俊輔はそれを守る為ならば、無理を無理だなどとは思わなかった。
と、いうよりもう大分前から俊輔にとって、稜のためにする無理は無理などではなくなっていたのだ。
そのようにして何ヶ月もの月日が、静かに過ぎていった。
それはあの事件から季節が一巡りほどした、秋の始まりの、とある夜のことだった。
ソファでうとうととしていた稜は唐突に目を覚ます。
つけっぱなしになっているテレビでは、顔を知らない芸人が机を叩いて大笑いをしており、やはりつけっぱなしになっているオーディオではジム・モリソンが小さな声で「太陽を待ちながら」を歌っている。
昔は間違っても、こんなことはしなかった。
音楽はともかく、テレビなど年に数回しか見なかった稜なのだ。
だが ―― 今では音のない、沈黙の中に一人でいることが、耐えられなかった。
このことを俊輔が知っているかどうかは稜には分からなかったが、部屋に一人でいるときは何かしら音がないといられなかった。
とにかく音であれば、何でも良かった。
テレビだろうがラジオだろうが、何かしらの音がしていれば、それで良かった。
ソファに横になったまま、稜はぼんやりとテレビの中で芸人が話したり笑ったりするのを聞いていた。
が、しばらく見聞きしていても、彼が何をそんなに可笑しがっているのか、稜にはさっぱり理解が出来なかった。
彼が笑い上戸なのか(笑い上戸の芸人は芸人としてどうなのか?という問題はひとまず考えずにおく)、稜の笑いを司る機関に何らかの障害が起きているのかすら、判断がつかない。
ふいに少し、ざわざわとした寒気を覚えた。
そういえば先ほど目覚めたときにも、妙な寒気を感じた。
陽が照っている日中はまだともかく、夜になると酷く冷え込んできている。
おそらくその気温差のせいで、寒気がするのだろう ―― そう考えながら、稜は俊輔が帰ってきたのではなくて良かった、と思う。
実はつい先日もこうしてソファで眠り込んでいるのを見咎められ、風邪を引くだろうと怒られたばかりなのだ。
それから数日も経過しないうちに同じ状況でうたた寝をしているのを見られたりしたら、前回以上の小言を言われるのは間違いない。
そうして俊輔のことを思った稜は、続けて、そういえば今日俊輔は、何時に帰ってくると言っていたっけ、とソファに横になったまま考えた。
ここ数週間、俊輔は忙しいらしく、帰ってくるのは深夜近くなることが多かった。
理由は ―― 聞いたかもしれないが、思い出せない。
以前より稜は俊輔の仕事に関する話を極力聞かないようにしていたが、最近ではそれが更に顕著になってきていた。
極力聞かない、というより、興味がもてない、と言うべきかもしれない ―― いや、興味というような積極的な言葉すら、似つかわしくないかもしれなかった。
そこには話されても分からないという一面もあったが、それよりも稜はここ1年ばかり、自分に極めて近しい周りのこと以外に、興味を抱けなくなっていたのだ。
俊輔が駿河会の会長になったという話や、内部で起こっているのだという様々な話が耳に入ってくることはあっても、稜にとってそれは別の銀河系で起こっている話と殆ど差がなかった。
とにかく、今日は早く帰れそうだと言っていた気がする ―― いや、それは明日の話だっただろうか・・・。
そう考えながら、稜がゆっくりと身体を起こした、その時。
遠くで、微かに、携帯電話の着信音が鳴るのが聞こえた。
外に待機している舎弟の電話の音か、と稜が考えたのとほぼ同時に、今度はテレビ画面の上部に、白い文字で臨時ニュースのテロップが流れる。
目覚めた瞬間に感じた寒気 ―― それがさらにはっきりとしたものとなって背中を走るのを、稜は感じた。