4 : 異変
それから数週間後のとある月曜日、稜は松戸市にいた。
会社を休んだ訳ではない。
その日から1週間ばかり、10年前に今現在稜が出向している会社から独立した“横溝商事”という名前の会社へ、営業指南をするという名目で出向くことになっていたのだ。
それを報告した際、三枝は、
“出向先からまた出向するというのですか、なるほどねぇ・・・”
と、わざとらしい感心の口調で言った。
当然ながら稜は、なにひとつ言い返すことが出来なかった。
稜としても、いちいちそんな報告をしたくはない。
言わないで済むものなら、絶対に言わなかっただろう。が、何か変わったことや気付いたことがあったらきちんと報告するようにと、普段からくどいほど念を押されているのだ。
それにそもそも、会社まで送迎されている現状では、黙ったまま済ませられる種類のことでもなかった。
確かに潮時なのかもしれないな ――――
向かった会社の応接室で、社長が来るのを待ちながら、稜は思う。
この会社自体が嫌だとか、悪いとか、そういう意味ではない。
仕事の関係でこれまでに何度か横溝商事の社長である横田政一(よこたせいいち)と顔を合わせていたが、むしろ稜は彼やこの会社に好意すら抱いていた。
社長という任につくには少々気が弱いところがある気もしたが、会社と従業員のことを何より大事に思っているのは、何度か会っただけの稜にも伝わってきたからだ。
だが ―― 確かに三枝の指摘通り、この現状に満足しているとは到底言い難い稜だった。
本社で仲良くしていた同僚たちは、そのうち絶対に呼び戻されると思う、上司もみんなそう言っているから、と口々に言った。
そういう話が出ていない訳ではないのだろうが、そこにしがみついて我を張ってどうなるものでもないのだ。
あと半年の間で会社を辞めろ、という俊輔の強引な命令には反発を覚えなくもないが、あそこまできっぱりと俊輔が言い切ったことを、覆せるとは思えない。
普段から命令口調でものを言うことが多い俊輔だったが、その強制力の度合いにはグラデーションのようなレヴェルがあることを、この数年で稜は察するようになっていた。
そして今回の俊輔の口調には、これまでに聞いたことがないほど強い強制の意志があった。
忌々しく思わなくもないが、これも全て自分が選んだことなのだ、と稜は思う。
求められる限り俊輔の側にいようと決めたのは他の誰でもない、自分自身なのだ。
例えこの先何があろうと、それでもいいから俊輔の側にいようと ―― いたいと、あの時、思った。
まさかこんなに早く、こんなに大きな決断を迫られることになるとは思わなかったけれど・・・ ――――
―― と、そこまで考えたところで、応接室の扉がノックされるのと同時に開かれた。
反射的に立ち上がろうとした稜は、ドアの向こうに立っている人物を見て、短く息をのむ。
ドアノブを掴んでいるのは、横田だった。それは予想通りだ。
だがその後ろに立っているのがここで会うはずのない人物 ―― 金山和彦だったのだ。
おどおどとした様子で、稜を見ようともしない横田が開けたままのドアから、金山がゆっくりと部屋に入ってくる。
そして稜の向かいのソファに腰を下ろした。
稜は呼吸を止めたまま、凍ったようにその動きを見ていた。
「 ―― か、金山さん、これでお約束は果たしました、ですから ―― 、借金と、会社の権利書の件は・・・」
横田が小さな、掠れた声で言った。
稜をじっと見つめたまま、金山は何の反応も示さない。
代わりに金山の後から入ってきた2人の男のうちの1人が、
「全て約束どおりにしてやるから、安心しろ。とにかくお前は手筈通り、しばらく日本から離れるんだ。用意はして来ているだろうな?」
と、中立的な声で言う。
「・・・はぁ・・・、」
と、横田は言い、ちらりと稜がいる方角を見てから、不安げに金山と男たちを見回す。
「ところで、あの、志筑さんのことは・・・まさか、そんな酷いことをしたりは・・・?」
「 ―― 金山さんはただ、志筑さんと話をしたいと思われているだけだ。そんな心配は無用だ」
先ほどとは違う男が、答えた。
それを聞いて、横田はほっとしたように頷く。
例え小学生であっても、この状況と様子を見た後では納得など出来なかったろうが、横田は納得したというよりも、納得したかったのだろう。
そんな横田を半ば追い立てるようにして、男たちが部屋を出てゆく。
冷たい音を立てて扉が閉まり、部屋には稜と金山だけが残された。
向かい合って座る稜をしばらくの間、金山は黙って眺めていた。
それは陽の射し込まない暗い場所に棲む、視神経が退化しかけた爬虫類のような目だった。
以前一度、彼に会ったときに覚えた寒気と吐き気を、稜は胃の奥底に覚えた。
「 ―― 5年」
沈黙の最中、ふいに金山が言った。
「ここまでくるのにかかった時間。5年・・・長い時間だ。しかし焦ることはなかった ―― 失敗は決して、許されなかったからだ。一度失敗したらチャンスは二度と訪れないことは、分かっていた。反面教師のような人物が、身近にいたからな」
と、金山は言い、唇の両端を捲り上げるようにして笑う。
「駿河麗子になくて、私にあったもの、それは忍耐だ ―― 忍耐 ―― まさに忍耐に次ぐ忍耐の5年間だった。
でも楽しかった。今日を限りにあの日々が終わってしまってしまったのだと思うと、少し残念だとすら思うよ。もちろんこうして君を手に入れられたのと引き替えにしようとまでは、思わないがね」
稜は答えなかった。
悪寒と吐き気はうっすらと続いていたが、恐怖や焦燥は感じなかった。
これはもう助からないと、稜はかなり早い段階で ―― 金山の姿を見たのとほぼ同時に悟っていた。
そして最初の確信は、金山の話を聞けば聞くほど強まった。
この会社に目を付けた金山はおそらく、じわじわと、焦れきって倦むほどに長い時間をかけて、透明な触手を伸ばしていったのだ。
そして同じくらいの時間をかけて罠をしかけ、あとはじっと息を詰めてチャンスを待った ―― 誰の目にも、それほどおかしいと思われないように稜をおびき寄せられる、今日のような瞬間を。
この計画を実行するのに、金山がどれほどの時間と神経と、そして金を費やしたのか、想像すら出来ない。
情報収集能力が高いと言われる三枝がいくら有能であっても、そんなやり方に気づくのは不可能だ。
横田やこの会社と直接関わっており、それほど鈍い方ではない稜ですら、そんな雰囲気に気付くことはなかったのだから。
むろん稜が姿を消せば俊輔たちはすぐに動くだろうが、異変に気づくのは今日の夕方過ぎになるだろう。
それだけの時間が稼げれば十分だと金山が考えているのは間違いなかったし、実際にそれが過ぎるほどに十分な時間であるのは明白だった。
表情を変えず、声も上げない稜を、楽しそうに金山は眺めた。
そして笑いのような形に歪んだ薄い上唇を、小さく嘗めた。