30 : モラトリアムの終焉
車に乗り込んでから、相良はまだはっきりとしたことは分からないと ―― 自分たち極道に関する報道はとかく強調されて報道されることが常なので ―― 前置きした上で、今回駿河会の事務所を襲撃したのは、恐らく三和会から絶縁を言い渡された小林組の残党だと思う、と言った。
もうずいぶん前から、俊輔と三和会所属の組は基本的に、あまり折り合いが良くなかった。
いざことが起きると非情で容赦がないと恐れられてはいたものの、無駄な暴力沙汰は極力控えたい。という考えの俊輔に対し、三和会には稜の一件に関わった小林組を始めとして、時代に沿わない粗野な組が多かったのだ。
むろん逆に三和会系のそういった組織も、普段はインテリ然として後ろに控えている俊輔を快く思うことはなかった。
俊輔と似たやり方と考え方で組織を纏める及川竜の旭会が三和会内で幅を利かせるようになってから、そこには多少改善の気配が見えてきていたが ―― その溝はまだまだ大きかった。
そう、そこへ来て、稜の一件が起きた訳だ。
非は明らかに三和会、小林組にあったが、具合の悪いことに小林組の初代組長は三和会立ち上げの頃から組織に関わる歴史のある組織であり ―― 三和会を放逐されても、その影響力は完全には消えなかった。
恐らく今回のことは、その軋轢から起きたのだろう、と相良は言った。
そこまでを聞いた稜は、力なく目を閉じる。
1年前にあの地獄から助け出されてすぐ、道明寺医院のベッドの上で思い起こしたある言葉が、再び稜の脳裏に蘇ってくる。
稜が極道の世界に関われば、数多の人血が流され、その中で俊輔の命すら脅かされるだろう ―――― 。
駿河会前会長である佐藤要のあの言葉は本当に、本当に、何もかも全てが、過ぎるほどに的確な指摘であったのだ。
そしてそう言われていたにも関わらず、稜はこの1年間、そこから目を背け続けていた。
あのシェルターのような部屋の外で起こっていることについて、考えることを放棄していた。
あの部屋で起こることが、語られることが、感じることが稜にとって全てであり ―― あの部屋の外側に世界は無いような気すらしていた。
そう、まるで昔の人間が、地球は平たいテーブルのようなもので、端から海水が延々と滝のように流れ落ちているのだと信じていたように。
その中で稜はいつの間にか俊輔すら、目の前にいる彼が全てのように思っていた。
だがもちろん、それは違うのだ。
あの部屋に帰ってきて穏やかに微笑む俊輔は、彼のほんの一部にすぎない。
俊輔はその他の大部分を、文字通り戦場にも似た場所で過ごしていたのだ。
そんな当然にも当然すぎることすら、分からなかった。
考えようとしなかった。
かつて稜は、
“もしかすると自分には、大事に思う人を為す術もなく失って行く運命が用意されているのではないか”
と、そんなことを考えていた時期があった。
近しい親族や家族の命が、次々と消えて行くのを目の当たりにして、為す術もなかった頃の話だ。
その恐怖が ―― 忘れていた、消え果てたと思っていた恐怖が、稜の足下から這いあがってくる。
やはり、そうなのだろうか、と稜は両膝の上で固く握り合わせた手を見下ろしながら、思う。
あの予感は、決してただの予感などではなく、紛れもない真実であったのだろうか。
それに基づいて、自分は今、俊輔をも失おうとしているのだろうか ――――
もしそうであるのなら、自分はもうこれ以上、生きてなどいられない。
生きている意味もない。
激しく、泣き叫ぶように、稜は思う。
愛するものの悉くを失い、自分の中身すら失ったような気がしているのに、その上俊輔までをも失って ―― それでどうやって生きて行けというのだ。
神はその人間が耐えられるだけの苦しみしか与えないのだという説を、いつかどこかで、稜は読んだことがあった。
だがもうこれ以上は ―― これ以上はどうあっても、どう考えても、耐えられるわけがない。
もしこれを耐えられると判断したのだとしたら、そんな神など想像力の欠片もない大馬鹿者か、ただのサディストだ。
時を重ねるのと比例して逸ってゆく気持ちをよそに、深夜近くなった都心の道は混雑していて、車は遅々として進まない。
まともに走っている時の方が、少ないほどだった。
辺りを照らす街灯のざらついた光を浴びながら、稜は身体が表面から、からからに干からびてゆくような気がした。
普段の2倍近い時間をかけて辿り着いた赤坂の駿河会の事務所前は、未だ騒然としていた。
見知った顔はなく、警察の姿と、報道陣の姿と、一体何を求めているのか、一般人の野次馬でごった返している。
その全てを、パトカーのサイレンが血の色に染めていた。
救急車はどこにも見えなかったし、ここまでそのサイレンの音も聞かなかった。
だが稜は知っていた ―― 救急車がサイレンを鳴らしながらスピードをあげて走るのは、助かる可能性のある怪我人または病人を乗せているときだけであるということを。
手の施しようがないと判断すると、救急車はそのサイレンすら消してしまうのだ。
母方の祖父が心臓発作で倒れた時が、ちょうどそうだった。
触れる身体が止めどなく冷えてゆき、ただの物体になってゆくのを感じたものの、それでも諦め切れない稜の前で首を振った救急隊員は、祖父を救急車に乗せることすらしなかった。
あの時の祖父の身体の冷たさを思い出した稜が思わず身震いをしたのと同時に、車が止まる。
はっとして顔をあげると、そこは事務所の裏手だった。
そこに出入り口があることはちょっと見は分からないようになっていたが、稜を乗せた車を見て何か動きがあるのかと後を追ってきた報道陣らしき人影もあった。
スモーク・ガラスの向こうを厳しい目で見てから、相良が稜に向き直る。
「ちょっと地下駐車場までは行けないようです。なるべくカメラには写らないように盾にはなりますが、顔は伏せておいてください。いいですね」
ゆっくりと相良が言い、それを聞いた稜は黙って頷く。
まずは運転席と助手席に乗っていた舎弟が外に出てゆき、次に稜の右手に座っていた越谷が車を後にする。
そして最後に相良が外に降り立ち、それからその全身で庇うようにしながら、稜を車外へと導く。
その周りを取り囲む極道たちの、いつにない鋭い視線を見た記者たちが遠巻きに見守る中、稜たちは足早に組事務所裏手にあるドアへと向かった。
そして舎弟の一人がドアを開けようと手を伸ばしたのを、まるで見ていたかのように、ドアが勢い良く、内側から開かれた。