32 : 贖罪の日
「・・・俊輔、・・・ ―――― 」
どのくらい長い時間が経ったのか、もう定かではないほどの時間が経過した後、ふいに、稜が囁くように俊輔を呼んだ。
その身体から震えは完全に引いていなかったが、稜が言葉を発したことに俊輔は心底ほっとして、腕に込めていた力を少しだけゆるめる。
「大丈夫か?今日はもう何も考えずに、ゆっくりと休んだ方がいい。俺は明日も ―――― 」
「俺を抱けよ」
俊輔の言葉を遮って ―― と、いうより殆ど俊輔の声など聞こえていないのかもしれない ―― 稜が唐突に言った。
俊輔は一瞬、自分が何を言われたのか分からず、呆然として耳を疑う。
「・・・何だって?」
聞き返した俊輔の声は、致命的に絡まり切った細い糸の固まりを、喉奥にめいっぱい押し込まれたような声だった。
稜の発音ははっきりとしており、聞き間違いようがないのは分かっていた。
だがそれでも聞き間違いではないかと、そうに違いないと、俊輔は聞き返さずにいられなかったのだ。
「俺を抱けと言ったんだ」
淡々とした、棒読みのような声で、稜が繰り返す。
俊輔は黙った。
もう聞き間違いだなどとは思いようがなかったが、信じ難い、あり得ない言葉であることには変わりがない。
「・・・、お前な、ちょっと落ち着け。自分が何を言っているのか、分かってるか?」
たどたどしく、俊輔は言った。
「俺はこれ以上ないくらい落ち着いているし、自分が何を言っているのかも分かっている ―― 早く抱けよ」
引き続き淡々と、稜は言った。
「・・・、お前は今、混乱しているんだよ」
口元にひきつった笑いを浮かべて、俊輔が言った。
「確かにあんな報道を見聞きして、驚くなとか、混乱するなという方が無理だ。すぐに連絡をしてやれば良かったんだが、色々とあって頭が回らなかった。
だが今後の為にもここでお前にはっきりと言っておくが、心配することは何もないんだ。いいか、俺は・・・」
「そういう御託は聞きたくない。気が向いたら、後で聞いてやる」
と、稜が言った。
「今はごちゃごちゃ言わずに俺を抱けよ ―― 途中で嫌がるかもしれない、泣くかもしれない、叫ぶかもしれない ―― それでもいいから、無理矢理でもいいから、何でもいいから、俺を、」
「やめろ!!」
と、俊輔がこれ以上はとても我慢がならないという風な、激しさを込めた声で叫ぶ。
「そんなことを、出来ると思うのか・・・!」
「出来るか出来ないかを聞いているんじゃない、とにかくそうしろって言ってるんだ」
「冗談じゃない、離せ ―― ・・・っ、稜、やめろ ―― やめてくれ!!」
何度払いのけても身体に回されて来る稜の腕を強めの力で掴み、俊輔が怒鳴った。
「頼むから、もうやめろ。ここでは絶対に、お前を抱いたり出来ない」
俊輔のその言葉にぴたりと動きを止めた稜が、眉間に皺を寄せ、俊輔を透かし見るようにした。
そんな稜の視線から、俊輔はつと顔を背ける。
「・・・かつてここで、俺がお前に何をしたか ―― 忘れたわけじゃないだろう」
短い沈黙をとってから、俊輔は地の底を這いずり回ったもののような声で、言った。
「あの時、俺がここでお前にしたことは、同じだ ―― 何から何まで ―― 、汚さも、卑劣さも、卑怯さも、何もかも、同じなんだ。俺はあの金山と何も変わらない、何も ―― 一片たりとも、変わらない。同じだ。同じなんだ、稜、・・・ ―― 」
最後、呻くように言われたその言葉を聞いた稜の、俊輔の腕を掴んでいた手指から、ゆっくりと、力が抜けてゆく。
ずるずると二の腕から這うように下がっていった稜の手は、軽く曲げられた俊輔の肘の辺りで引っかかるようになって、止まる。
少しの間があり、それから稜が呟く、「本当にお前は ―― どうしようもない、・・・」
呆れるというより、精魂尽き果てたような稜の呟きを聞いた俊輔が、頑なに逸らしていた視線を稜に戻す。
その俊輔の視線を受け止めた瞬間、稜の目に、怒りとも、憤りともつかない炎が、一気に燃え上がる。
「今更 ―― お前は今更、何を言ってるんだよ・・・!今になってそんな後悔をするくらいなら、最初からあんなことをするな。人違いだって言うのを、貫けよ!!」
これまでの淡々とした口調をかなぐり捨てた稜が怒鳴り、その手が俊輔の胸ぐらを掴み上げる。
「お前が救いようがないくらいにどうしようもなく傲慢で、我儘で、最低最悪な男だって事くらい、とっくの昔に俺は知ってる。嫌って言うほど、分かってる、分かってる ―― 分かってるんだ!」
稜の手によって壁に押し付けられるようになった俊輔は、何ひとつ言葉を発する事が出来ず、ただ無言で稜を見下ろしている。
そんな俊輔の胸ぐらを掴み上げた稜の手に籠もる力がやがて、怒りの色から縋るようなものへと変化してゆく。
「でも ―― いい。それでもいい・・・、次はないかもしれない。明日は来ないかもしれない。それなら ―― 辛くても、苦しくても、そんなことはもう、どうでもいい・・・、だから・・・、俊輔 ―――― 」
そう言った稜の膝から、がくりと力が抜けた。
そのままずるずると床に沈んでゆこうとする稜の身体を、俊輔の手が引き止める。
俊輔の胸元を掴む手にこめた力と、同様の色彩を纏わせた目で見上げてくる稜を、俊輔はすぐに真っ直ぐ見返そうとはしなかった。
だが伏せていた目をどこか苦しいように閉じた俊輔は、震えるように一度息を吸い、吐いてから、目を閉じたまま、ゆっくりと、稜の頬に口付ける。
さらりとした稜の頬にそうして口付けてから、俊輔は未知のものを探るようなやり方で稜の頬のカーブを辿ってゆき、やがてその唇に自分のそれを重ねた。