Night Tripper

5 : 護りたいもの

 社屋から繋がっている薄暗い廊下を通って駐車場に連れて行かれた稜は、そこに待機していたトラックの荷台に乗せられ、横溝商事を後にした。

 最初の移動がこんなトラックの荷台なんかで、申し訳ない。
 高級車に乗せて連れて行ってあげたいのは山々なんだけれど(私だってロールス・ロイスやらフェラーリやらベンツやら、色々持っているんだよ)、俊輔の手のものが外で目を光らせているからね。
 本当に悪いとは思うんだけれど、今回だけだから、許してくれるね?

 金山は本当に申し訳ないというような表情で、かき口説くように、稜にそう言った。

 今は亡き駿河麗子に浚われて殺されかけた折、稜は“この女は完全に狂っている”と思った。
 だが今自分の横に座る金山には、麗子とは別の種類の狂気を感じる。
 麗子は自分が狂っているという自覚を持った上で狂っていたが、金山はおそらく、自分が狂っているなどとは微塵も考えていないであろう。
 無意識かつ無自覚の、手に負えない狂気が暴走している雰囲気が、金山にはあった。

 そうして稜が連れて行かれたのは、東京都内 ―― あろうことか、品川にある高級ホテルだった。
 地下駐車場から地上に上がってゆく途中で稜は、諦めの気持ちを抱きつつも、誰かこのエレベーターに乗り込んで来てはくれないかと願う。

 だが恐らくはそこにも手を回しているのだろう、エレベーターは最上階まで停まることはなかった。
 辿り着いた最上階はペント・ハウスのような作りになっており、そこにはバトラーの姿をした数人の男が待機していた。

 普段はホテルの従業員であるバトラーがいるのだろうが、今日のバトラーが金山の手のものであることは一目瞭然だった。
 彼らは一応バトラーの格好をしてはいたが、こういう職種のサービス・マンとしては彼らはいささか目つきが鋭すぎたし、部屋のドアを開けるやり方に漂うはずの柔らかな丁寧さが微塵もなかった。

 部屋に入った金山はまず、広いリビングを真っ直ぐに横切り、呆れるほど大きな窓に掛けられたカーテンを開けてヴェランダに出た。
 そして部屋の中央部に立つ稜を振り返って見て、
「ここから、君と俊輔が暮らしているマンションが見下ろせるんだ ―― だから選んだんだよ。ちょっと来て、見てごらん」
 と、言った。

 稜は相変わらず黙ったまま、動かなかった。
 稜の両脇に立つ男たちも、無理に稜を連れていこうとはしなかった。
 金山に余計な手出しはするなと、命じられているのかもしれない。

 証拠に金山は気を悪くした風もなく肩を竦めて部屋に戻り、後ろ手にカーテンを閉めた。
 そして、
「最初は俊輔の側がいいかと思って、気を遣ったんだが ―― 余計なお世話だったかな?」
 と笑い、同時に稜の後ろに立つ男たちに向かって顎をしゃくって見せる。

 両腕を捉えられ、寝室に連れ込まれ、ベッドに押さえつけられる。
 近づいて来る金山を、稜はやはり黙って見ていた。

 いつか一度だけ聞いた、道明寺医院の院長の言葉 ―― 金山和彦という男は頭のネジが数本飛んでしまっている、マッド・サイエンティストチックなヤバい男なんだ。という言葉を、稜は忘れていなかった。
 そういう輩は相手の強い感情の波を見れば見るだけ、感じれば感じるだけ、より興奮の度合いを増すのだろう。

 ならば自分は耐えられるだけ ―― いや、例え耐えられる限界を超えたとしてもひたすら黙って耐えるだけだと、稜は考えていた。

 人間、変われば変わるものだな ―― 妙に冷静な思考回路の裏側で、稜は思う。

 3年前、駿河麗子の命令で同じことをされかかった時には、こんなことをされるくらいなら死んでしまおうと思った。
 そう、あの時は死を選ぶことに対し、何の躊躇いも感じなかった。
 訳の分からない男たちに陵辱されるくらいならば、死ぬ方がずっと容易いことだと考え、実際に実行しかけた。
 命のスイッチを自らの手で切り、二度と再び、目を開くまいと。

 だが今、この時、稜は激しく、強く、夜中にする祈りのような強さで、考えていた。

 ここで死ぬわけにはいかない。
 絶対に、なにがなんでも、生き延びなくてはならない。
 こんなことをされた上で俊輔を残し、自分は決して、死んだりしてはならないのだ ―― もちろん、狂うわけにも。

 俊輔は一見、いつでも、どんな時でも、冷静で、冷徹で、揺るぎなく、そして剛胆に見えた。

 つい数ヶ月前も7億円超の負債を負わせた会社を計画倒産させ、莫大な利益を上げたという話を聞いた ―― いわゆる“借り抜け”である。

 全く、とんでもない話だ。許せない話でもある。
 しかしそういうことを突っ込んだり、真面目に考え出したらそもそも、俊輔とは一緒にいられるものではない。

 そう思って稜は俊輔の仕事のことに関しては見て見ぬ振りをするのが常なのだったが、そういう時に何が起きても俊輔は常に慌てないのだという噂は、嫌でも耳に入ってきた。
 そして問題が起こったときに(当然ながら、起こらないことはない)間髪入れずに下される命令は、奇抜ながらもよくこんな絶妙に巧い方法を短時間で考えつくと、舌を巻くようものなのだという。

 だがそうして揺るぎなく立っているように見える俊輔の、寄りかかってくる精神の重みを、稜は日を追うごとに強く感じるようになっていた。

 だから ―― だからこそ ―― 死ねないのだ、自分は、絶対に、こんなところで死んだり、殺されたり、出来ない。決して。

 悲壮な、しかし天を衝くバベルの塔のような揺るぎない決意を抱いた稜の脳裏に、ある言葉が蘇ってくる。
 昔、学生時代に俊輔から借りた小説に書かれていた言葉。

 自らの想像力に対して抱く恐怖以上の恐怖は、この世に存在しない。

 誰の小説だったか ―― 俊輔が他人に薦めるほど好きな作家であることから考えると、恐らくはディッケンズか、コンラッドか・・・どちらかだ。コンラッドだっただろうか。

 その説が正しいのだとすれば、戦うべき相手は自分の外ではなく、中にいる。

 そう考えた稜は一瞬強く両目を閉じてから、顔を上げた。

 そして近付いてくる金山の視線を、真っ向から受け止める。
 睨むでもなく、怯えるでもなく、ただ淡々と、無感動に ―― どこまでも、中立的に。