8 : 想像力の死
永遠のように長く続いた射精が終り、ずるりと金山自身が自分の中から抜け出てゆくのを感じた稜は、ゆっくりと目を開けた。
目を開いたそこには、視界を閉ざしていたときとはまた別の種類の闇が広がっていた。
思えば3年前もそうだった、と稜は思う。
あのときも、同じような暗闇を見た。
だが以前見た闇と、今日、稜の目の前にある闇の間には、決定的な違いがあった。
以前見た暗闇はひたすらに黒く、重く、暗く ―― 揺るぎない暗黒の恐怖のみを纏っていたが、今回の闇は、それとは全く違っていた。
そう、今、この瞬間に稜の目の前に広がっている闇にはどこか、甘やかめいたものがあった。
まるで長年の友人ででもあるかのような顔をして近づいて来て、親しげなやり方で軽く人の肩を叩き、こっちに来たら楽になれるよ、と笑いかけ、誘いかけてくるような。
その甘さが、稜にとっては何よりもの恐怖だった。
こんな時、俊輔のことを考えるべきなのだろうか ―― ぼんやりと、意識の表層だけで、稜は考える。
おそらく俊輔にとっての稜がそうであるように、今の稜にとっての俊輔は、強さの源であり、同時に弱さの際でもあった。
俊輔の為に、強く在りたいと思う。願う。
けれどそうして俊輔を想うと、強さへの渇望と同時に、泣きたいような、訳の分からない感情がこみ上げてくる。
金山が最中に予告したように、俊輔の元には帰れないのではないか、そしてもう二度と俊輔とは会えないのではないかと、想像してしまう。
相良は以前、稜を連れて逃げる際、“あなたに万一のことがあったら、あの方の全てが、そこで終る”と言った。
それを聞いて稜は、“結局目の前に本人はいないのだから、たいした違いはないのではあるまいか”と、思ったものだ。
稜に対する俊輔の想いの強さを理解している今では、そういう点も確かにあるかもしれないとは思っていたが、このとき稜はようやく、相良の言葉を本当の意味で理解した。
“どこかで生きている”という希望があるのと、“どんなに探しても、もうどこにもいない”というのでは、正に天と地ほどもの違いがある。
金山がどこに稜を連れてゆこうとも、俊輔は文字通り地の果てまで追ってきて、稜を助け出そうとするに違いなかった。
しかし ―― いつまで・・・?
一体いつまで耐えていればいいのか ―― 果たしてどこまで自分は、耐えることが出来るだろう・・・?
その思考に身体の芯が冷え、次いで腕に冷たい感触を感じて稜の肌が粟立つ。
緩慢な動きで首を曲げて視線をやると、今まさに、掴んで伸ばされた二の腕の半ばあたりを消毒され、そこに注射針が刺し込まれようとしているところだった。
小さく、表面からは分からない程度に、稜は笑う。
薬のせいで、確かに身体は熱くなるのだろう。
けれどそれだけではこの身体は、俊輔に対して見せるような反応を示すことは決してない。
最中の反応というのは、目に見える肉体から派生するものではなく、相手を想う心から派生するものなのだ。
身体が熱くなるのと、心が熱くなるのとは、全く別の次元の話なのだ。
先ほど金山に犯されてみて稜はそれをはっきりと確信し、その実感に、ある意味で安堵すらしていた。
薬で無理矢理熱くさせられた身体は、まるで拒絶反応を起こすように心を肉体から引きはがしてゆくのだ ―― 鋭く冷たい、痛みと共に。
その痛みは文字通り身を引き裂くような激しいものであったが、今はその痛みすら有難いと思えた。
ともすれば楽な方へと流されそうになる弱い自分を、その痛みが諌め、引き留めてくれる。
こういった一連の感情の流れを、金山はきっと一生、永遠に、理解しないだろう、しかし・・・ ――――
先ほどから遠くで、重量のある金属が擦れあうような音がしていた。
無理矢理押しつけられようとする快感には、抗うことが出来る。
しかし恐怖には、一体、どこまで・・・ ――――
怖いか?、と稜は自身に問う。
怖い、と自分が答えた。
皺の寄ったシーツの連なりをぼんやりと眺める稜の顔を、再び覆い被さってきた金山が仰向かせる。
重油を流した海のような視線で見上げてくる稜に向かい、金山がにやりと笑いかけた。
それは肉食獣が無抵抗の小動物をなぶり殺しにする直前に見せるかのような、壮絶に壮絶すぎる、笑みだった。
金山の薄く開けられた口から、血潮が滴り落ちているような、幻覚が見える。
自分はこの男に、喰らい尽くされようとしているのだ、と稜は思った。
身体のそこここから、否応なしに、強い恐怖の声が上がろうとした、その刹那 ―― 雷で打たれるような衝撃と共に、ある言葉が稜の脳裏に蘇ってくる。
―― 自らの想像力に対して抱く恐怖以上の恐怖は、この世に存在しない ――
再びその言葉を思い出した稜は、迷うことなく、一気に、想像力に繋がるダクトを叩き潰した。