== DEATH-tiny-LabYrinTH 12 ==

 羽で触れるようにそっと頬を撫でてゆく手の感触に、ゆるゆると意識が覚醒した。
 行為の最後の方は殆ど記憶がなく、そのまま一瞬意識を失っていたらしい ―― あまりにも身体が気だるく、目すら開けられないまま、稜はそう考えた。

 頬に触れていた手はやがてゆるやかに額へと移動してゆき、稜の額に落ちかかった前髪をそっと後ろに払ってゆく。
 その指先には、普段の俊輔が前面に押し出している不遜な態度とは真逆の、限りない甘さに裏打ちされた切なさが漂っている。
 それは今夜だけに限ったことではない。いつもそうだ。

 決して口にはしないが、稜は行為の直後に自分に触れる俊輔の手の雰囲気が、とても好きだった。
 少しも光が射し込まない、自分の手すら見えないような暗闇の中でも、俊輔の手だけは、たとえ何百人の中からでも探し当てられる自信が稜にはあった。

 長いこと稜の額のあたりに留まっていた俊輔の手が、ゆっくりと離れてゆく。
 それを追うように、稜は目を開けた。

「 ―― 水、飲むか」
 と、俊輔が訊いた。

 黙って、稜は頷く。

「 ―― 飲ませてやろうか?」
 と、俊輔が訊いた。

 黙ったまま、稜は微かに首を横に振った。

 稜が断ることは最初から分かっている俊輔は笑いながら立ち上がり、冷蔵庫からエヴィアン水のペットボトルを取り出して稜に渡した。

「明日だったよな」
 半分ほど中身の減ったエヴィアン水のペットボトルを俊輔に渡しながら、稜がぽつりと言った。
「・・・なにが?」
 受け取ったペットボトルに口を付けて、俊輔が言った。
「東京に帰るのは、明日だよな」
 と、稜が繰り返して尋ねる。
「ああ、そうだな」
 と、俊輔が頷く。

 稜はそこで俊輔の手からペットボトルを取り返して一口、飲みかけた ―― が、途中で動きを止めて口をつぐみ、その後じぶんと長いことぼんやりと自分の足に絡まっているシーツの皺を見ていた。
 稜が話の続いてゆく先にある何らかの問題(のようなもの)を感じ、それについて考えているのが分かったので、俊輔は稜が考えを整理して話の続きをしだすのを大人しく待っていた。

 しかし俊輔の予測に反して稜は、そうか。と言っただけで手にしたペットボトルをサイド・テーブルに置き、無造作にシーツを引きかぶって目を閉じてしまう。

 中途半端な形で取り残された俊輔は意味が分からず、訝しげに首を傾げた。
 先ほどの俊輔を誘うやり方といい、今のことといい、旅館に帰って来てからの稜はどうもおかしい。

 だがその理由が旅館の出入り口で俊輔が言った言葉にはないと言った稜の言葉を信じるとしたら、他の理由が俊輔には思いつけなかった。

 まぁいい。
 明日も様子がおかしければ、もう一度きちんと問いただしてみればいい。

 そう結論づけた俊輔はベッドを必要以上に揺らさないように注意しながら手を伸ばし、サイド・テーブルの足下だけに点していた明かりを消した。

 次の日、起きてみると稜の態度は ―― 少なくとも表面上は ―― 元に戻っていた。
 多少口数が少ない気もしたが、普段から稜は饒舌なたちではないから、気になるほどでもなかった。

 予定では午前中の早い段階で東京に戻ろうと思っていたのだが起き出すのが遅かったこともあり、東京に着いた頃には時刻は夕方に近かった。
 1週間近く東京を離れていたため、品川のマンションに稜を送り届けたその足で組事務所に顔を出してくる、と俊輔は稜に言った。

「どうしても、行かないと駄目なのか」
 玄関先に荷物をおいて靴を脱ぎながら、稜は言った。
 そして振り返って、俊輔を見る。
「あと数日、休めないか?」
「・・・なぜ?」
 と、俊輔は訊いた。
「・・・別に。ただもう少し、2人でいたいと思っただけだ」
 と、稜が答えた。

 それは本当に、何気ない口調だった。
 まるで普段から日常茶飯事的に口にしていることで、少しも驚くに値しない、とでもいうような。

 だがむろん、稜がそういうキャラクターとはほど遠い性格をしていることは、周りにいる全ての人間が知っている。
 稜たちが帰ってきたと聞いて部屋にやってきた相良伊織ですら目を見張り、思わず俊輔と驚きの視線を交わしたほどだった。

「 ―― えー、一緒にいたいというお前の言葉は、小躍りしたくなるくらいに嬉しいんだけどな」
 と、俊輔は言った。
「流石にこれ以上俺が仕事を放り出したままでいたら、三枝がパンクする。あいつは非常に有能な奴だが、キャパシティが無限な訳ではないから」

 稜は肩をすくめただけで、何も言わなかった。
 俊輔は続ける。

「でもまぁ、これだけの休みが取れた理由はただひとつ、今現在、差し迫った問題が起きている訳ではないということでもある ―― だから、ここ暫くは早く帰って来られると思う」

 稜は先ほどとは別のやり方で肩をすくめ、無言で部屋に入っていってしまった。
 その後ろ姿が居間の扉の向こうに見えなくなったところで、俊輔は首を傾げる。

「あいつほど、無言の感情表現の幅が広い奴を、見たことがないよな ―― 相良」
「はい」
「どうも様子がおかしい。気をつけて、見ておいてやってくれ」
「今日はこのまま、一緒に過ごされるべきかと思いますが」

 間髪入れずに相良が自分の命令に異を唱えるのに、反射的に出たため息をかみ殺し、俊輔が相良を見る。

「・・・お前、最近とみに稜に甘くないか?と、言うか俺の話を殆ど聞く気がないだろう」
「そうですか」、と相良が言った。
「そうですよ」、と俊輔が言った。
「・・・否定は致しませんが、志筑さんがああいうことをおっしゃるからには、相当お気持ちが強いのだと思いますので」
 と、相良が気遣わしそうに呟く。
 否定しないのかよ。と内心激しく突っ込みつつ、俊輔も相良の意見がもっともであるのは分かっていた。
 が、この旅行から帰ったらその日のうちに組事務所に顔を出すというのは、最初から三枝と約束していたことだ。
 それだけでなく、俊輔には今日中にどうしてもやっておかなくてはならないことがあった。

「お前の言いたいことは、分かっている。だがどうしても今日中に組に顔を出さないとならない。用事を済ませたらすぐに戻るから、ここは頼む」
 と、俊輔は言った。
「 ―― 分かりました。出来る限りお早いお戻りを」
 と、相良は言った。