== DEATH-tiny-LabYrinTH 14 ==

「わざわざ殺さなくても明日死ぬ。早まるな」

 と、俊輔が言い終わるか終らないかのところで、菖蒲は返す手で今度は俊輔の右頬をひっぱたいた。
 左頬を叩いたときと同様の鋭い音がし、俊輔はその勢いに首を左右に振ってから顔を正面に戻す。
 菖蒲は僅かに乱れた髪を流れるような動作で元通りに整え、ソファに戻ってバックを手にする。

「 ―― 返事は」
 そのまま立ち去ろうとする菖蒲の背中に、俊輔が訊いた。
「私は人に命令することは好きですが、されるのは嫌いですし、何かを強要されるのも大嫌い」
 ドアノブに手をかけて、菖蒲は言った。
「でもこれは文字通り“一生のお願い”というものなのでしょうから、それをはねつけるほど狭量な人間ではないつもりです。他でもない、志筑さんのことでもありますし ―― ですから、お引き受けします。ただし」
 と、そこで菖蒲は振り返り、俊輔を睨み据える。
「例え何がどうなったとしても ―― あなたが明日死ぬにしても死なないにしても、今後一切、私が志筑さんにすることに口を出したり、横槍を入れたりすることは許しません。よろしいですね」

「明日からならな」、と俊輔は答えた。
「もちろん」、と菖蒲は頷いた。
「それならいい ―――― 稜を頼む」

 最後、微かに声を掠れさせた俊輔を見て、菖蒲は何かを言いたげに口元を震わせた。
 が、躊躇った末に結局口をつぐみ、菖蒲はそのまま部屋を出ていった。

 死神から話を聞いたときは、タイム・リミットが近づけば近づくだけパニックのような恐怖に襲われるのだろうと、俊輔は予測していた。
 しかし現実は想像とは違い、最後の24時間は嘘のように淡々と過ぎていった。

 困惑が飽和状態になっていて、死というものへの怯えをうまく感じ取ることが出来なくなっているのかもしれない。
 俊輔が部屋に帰った際の稜が、たった数時間前に“もっと2人でいたい”などと言ったことが嘘のように普段通りだったせいも、あるかもしれない。

 最後の朝も夜と同様、稜は全く普段と変わらなかった。
 ただこれが最後の朝なのだと思ってたまらなくなった俊輔が、思わず稜を引き寄せて荒々しく口づけたのに、稜はまるで抵抗せず、それが不思議といえば不思議ではあった。
 そう、稜は未だに明るいところ、特に日の光の元で俊輔に触れられるのを嫌がる。
 稜の性格からするとそこには照れも含まれているのだろうと俊輔は内心面白く感じてもいたのだが、とにかく稜は俊輔が明るい場所でちょっかいをかけると、必ず抵抗してみせる。それは人目があろうとなかろうと変わらない。
 俊輔からしてみれば、なにを今更・・・。という思いがするのだが ―― とにかく今朝に限って、何故か稜は抵抗の素振り、気配すら見せなかった。
 そのまま押し倒して抱こうとしても従順に応えそうだとすら思った。
 可能なら昨夜の続きを朝から始めたいところだったが、残念ながら俊輔には時間がなかった。

 最後の日のスケジュールをどうするべきか随分と悩んだのだが、結局俊輔は今日一日、普段どおりに予定を入れていた。
 死神が予告した午後8時50分ぎりぎりまで稜といるという選択も出来たが、どんな死に方をするかも分からないのに稜を側には置いておけない。
 自分が死ぬ際のとばっちりで怪我でもさせたら、それこそ死んでも死にきれない。
 それに ―― そう、それに、自分の死に際を稜に見せるのも躊躇われた。
 死が避けられない運命なのであれば、仕方ない。だがせめて悲惨な死の場面だけは、目の当たりにさせたくなかった。
 俊輔の憧れでもあった、あの暖かい家族のひとりひとりを順々に亡くし、その死を為すすべもなく一人見つめてきた稜に、自分の死まで見せたくない、と俊輔は思っていた。
 もうこれ以上、一片たりとも、稜が自分のせいで傷つくことも、苦しむことも、絶対にしたくない、と。

 だから俊輔は内心の未練を押し隠して稜を離し、いつも通り軽い食事をとり、身支度を整えて玄関に向かう。
 そして最後、振り返って見送りに出てきた稜を眺めやった。

 相も変わらず綺麗な男だ、と俊輔はこの最後の時に、つくづくと思う。
 昔 ―― 学生の頃の稜は張りつめたような生真面目さが前面に押し出されていて、それが鼻につく部分もあった。
 だが今はもう、それも鳴りを潜めている。
 代わりに見えるのは、どことなく疲れをにじませたような暗い陰だ。
 一生消えない、俊輔が刻んだ、暗く重い、陰の刻印 ――――

 そう思った途端、焦燥のような、焦りのような気持ちが、俊輔の胸にこみ上げる。

 本当にこれで良かったのか。
 自分は何かを、どこかで、間違ってしまったのではないか。
 もっと他にやりようがあったのではないか、・・・ ――――

 だがそれは、今更考えても仕方のないことだった。
 何もかもが、もう遅すぎる。

「 ―― じゃあな。行ってくる」、普段通りに、俊輔は言った。

「気をつけて」、平坦な声で、稜は言った。

 その日の俊輔は午後から、妙に忙しくなった。
 元々スケジュールは全て埋まっていたが、予定外の来客があったりして、昼食を食べる余裕すらない。

 全く、最後の昼食くらいゆっくり食べさせてくれよ、と俊輔はうんざりしたが、仕方がない。
 そもそも唐突に1週間も休んだツケを回収しているようなものなのだ。

 時計を確認する余裕もなく、過密に組み直されたスケジュールを消化してゆく狭間 ―― とある関連企業のオフィスビルを出て、待たせていたリンカーン・コンチネンタルに足を向けた瞬間 ―― ビルの陰から出てきた男が、何かを叫んだ。

 鋭い勢いで声のした方向に転じた俊輔の視界に、焦げ茶色のジャケット着た男の姿が映る。
 男は慣れたやり方で、ジャケットの胸元に抱え込むようにしていたものを引き出す。
 引き出された手には、大型の散弾銃が構えられていた。
 残酷なまでに黒々とした銃口が、まっすぐに自分を捉えているのを、俊輔は人事のように見ていた。
 その男の背後にそびえ立つビルの壁に埋め込まれた時計の短針が、9に程近い部分を指し示しているのも、一緒に。

 男が、何かを叫んだ。
 日本語ではない ―― 北京語のように聞こえた。

「 ―― 会長・・・っ!!」

 車の脇で待っていた船井と、少し離れて付いてきていた三枝、そして周りにいたボディーガードの舎弟たちの怒号が重なった。

 乾いた銃声が連続して空気を引き裂き、どこからか悲鳴が上がる。

 と、その時 ―― ふいに誰かが俊輔の腕を強く掴んで、引いた。
 視界が傾ぎ、後頭部に激しい衝撃があった。

 急速に視界が暗転してゆく。
 ああ、死とはこういうものなのか。と思いながら俊輔が意識を手放そうとした一瞬前、

「あー、悪い。予定変更」

 と、誰かが耳元で囁いた。

 その声は、死神の声にとてもよく似ていた・・・。