== DEATH-tiny-LabYrinTH 19 ==

 死神に忠告されるまでもなく、死なずに済むと知ったからには品川に帰るつもりではあった。
 が、死神との話の全てが稜にも知らされていたと知った今となっては、どうにも帰り辛い。
 とはいえ避けて通れるものでもなかったので(当たり前だが)、俊輔は今日一杯は念のため入院しておいた方がいいのでは、と心配する幹部連の制止を振り切って品川に向かった。

 まるで他人の部屋に忍び込むような緊張感と共に足を踏み入れたマンションは、しんとした闇に沈んでいた。
 死神と分け合った最後の時と同様、いきものの気配がまるで感じられない、完璧な沈黙に支配された世界が、そこにはあった。

 おかしいな、と俊輔は思う。
 ここに稜が帰ってきているのは、絶対に確かなのだ。
 昔と違い、稜がふらりと一人でどこかに行ってしまったりは ―― 菖蒲という厄介な例外はあるのだが ―― 出来ないようになっている。
 すでに眠ってしまったのかと寝室を覗いてみたが、ベッドは完璧に整えられていて、シーツには皺ひとつない。
 バスルームの扉を開いてみたが、そこも使った形跡はみられなかった。
 普段使っていない部屋まで一通り見て回ったが稜の姿はどこにもなく、思わず戸棚や引き出しまで開け回ってしまいそうになったとき、俊輔は稜を見つけた。
 リビングの大きな窓の片隅、据えられた観葉植物の葉の陰に隠れるようにして、稜は立っていた。
 稜の視線は窓の外に広がる東京湾を望む夜景に注がれていたが、少し長くなった前髪と観葉植物が投げかける陰によって、その表情はよく見えなかった。  明かりが全くなかったので、まさかリビングにいるとは思わなかった。
 盲点だったな、と思いながら、俊輔はゆっくりとした足取りで稜に近寄ってゆく。
 こんな強い緊張感と共に稜へと近付くのは、二度と会わないと決めていた稜が、思いがけず会いに来た時 ―― 2人の関係が今のようになった始まり日以来だった。

「触るな」

 稜の斜め後ろに立った俊輔が、胸の前で組まれた稜の腕の、肘の辺りに触れようとした一瞬前に、稜は言った。
 それは固く、強ばりきった声だった。

「・・・ごめん」
 と、俊輔は謝った。

 稜はすぐには答えなかった。
 しかし俊輔が答えが返ることを諦めようとした瞬間を見計らったように、稜が静かに訊き返す、「お前は一体、何を謝ってるんだ」
 稜はゆっくりと首を曲げ、俊輔を見上げた。
 そして再び繰り返して訊く、「一体、何を謝ってる?」
 俊輔は注意深い口調で答える、「 ―― 心配をかけた」

 俊輔の回答を聞き、稜はにっこりと笑った。
 それはこの場には絶対にふさわしくない種類の笑みで、瞬間、俊輔は背筋にぞくりとした戦慄めいた震えを覚える。
 こんな感覚は、どんな相手と対峙した場面でも、感じたことはなかった。

「心配なら、いつもしている。お前が玄関から出掛けて行った瞬間から、再び玄関から帰ってくるまで。いつも、毎日、ずっと、心配はしている」
「 ―― 、・・・ごめん、・・・」
「・・・だから。何を謝ってるんだよ」
 と言って、稜は顔に張り付いたままだった笑みを回収し、再び外の景色に目をやった。
「お前はいつもそうだな。俺が何を怒っているかを知りもせずに謝る。理由を考える気もないんだろう。謝れば、それで済むと思ってる」
「そんなんじゃない、俺は ―――― 」
「そうじゃないのなら、何なんだ」
 俊輔の言葉を遮って ―― そもそも聞く気がないのかも知れない ―― 稜は言った。
 その声はどこまでも、果てしなく平坦だったが、俊輔に謝罪の言葉を続けさせない力があった。

 2人の間に、沈黙が満ちた。
 気まずいのか重苦しいのか息苦しいのか、判断のつかない沈黙だった。

「別に、言ってくれなくてもよかった。細かいことは」
 やがて長い沈黙を破って、稜が淡々とした口調のまま言った。
「ただ、その後のことを ―― 何があっても歯を食いしばって生きていけよとでも、一緒に死んでほしいとでも ―― 方向性はどうでも良かった。何でも良かった。でもとにかく、そういう話をしてくれないかと思って、待っていたんだ。ずっと ―― でもお前は結局、何も言わなかった。何もかもを知っていたくせに、何も言わずに、ひとつの予告もなく、俺を置いていこうとした」
 そう言った稜の語尾の最後が、こらえきれないとでも言う風に激しく揺れた。
「・・・稜、・・・ ―― 」
 触るなと言われたことを忘れ、俊輔は思わず稜へと手を伸ばした。
 が、稜は小さく身体をよじり、その手を拒絶した。
 そうしながら、稜は崩れかけた表情を素早く元通りの状態に立て直してゆく。
 そして毅然とした雰囲気で微かに顎をあげ、更に厳しさを増した視線で眼下に広がる夜景を眺めやった。

 そんな稜の様子を目の当たりにした俊輔の胸に、激しい悔恨の想いが満ちる。
 自分の死の宣告が、稜を傷つけるのを見たくなかった。これ以上自分のことで、稜を必要以上に傷つけたくはなかった。

 だが間違いだったのだ。2人の間のことを一方的な感情で決定するやり方は間違いであっただけでなく、稜を一番傷つけるやり方だった。
 きっと自分はこれまでにもこうして自覚を持たずに、何度も、数え切れないほど稜を傷つけてきたのだろう。
 何よりも一番守りたいものを、結局他のなにものにも増して、自分が傷つけている事実 ―― そこに思い至った俊輔は、どうにもやりきれなくなる。

 もうここ何年もの間、俊輔は稜のぬくもりを傍らに、後悔ばかりが押し寄せる眠れない夜、数多くの過ちに気づけずにいた自分をひたすらに呪ってきた。
 苦しみを乗り越える努力やその意味を考える段階にすら行き着けず、沸き上がる後悔にただただ打ちのめされてきた。
 勘の鋭い稜のことだ、そういう俊輔の気配に気付いていただろう。
 そしてきっと、そのことが更に稜を傷つけて来たに違いない。

 あんたはそろそろ、本当の意味で強くならなきゃならない。

 死神の言葉が、胸に迫って思い出された。

 割れたグラスはどう努力しても元通りにはならないのだ。どんなに望んだところで、時は逆戻りしたりはしないのだ ―― 死神が言ったとおり。
 ならばその後悔にまみれた過去すら飲み込んで、二度と同じ過ちを繰り返さないと強く心に誓いつつ、明日を見据えて立ち上がらなければならない。
 どんなに辛くとも、血反吐を吐くような思いをしたとしても、後悔を引きずってでも前に歩けないのならば後悔などをする意味はないのだ。

 俊輔は改めて顔を上げ、稜の横顔を見た。
 久しぶりに、まともに、稜の顔を見た気がした。

「 ―― 愛している」

 と、俊輔は稜の横顔に向かって呟いた。