== DEATH-tiny-LabYrinTH 3 ==

 エアー・コンディショナーの低いモーター音が響く中、沈黙は重く長く、続いた。

 険しい表情をした俊輔はそれ以上、自分がいなくなった後の稜について尋ねなかったし ―― 訊けなかった、というのに近いかもしれない ―― 死神も表情を消したまま、黙っていた。

「 ―― とにかく」

 やがて死神が重くなった空気に区切りをつけるように、座っていたキャビネットから飛び降りて言った。
 飛び降りたそこは木製のフローリングだったが、音は少しもしなかった。

「タイム・リミットは今日からきっちり10日間 ―― 再来週の金曜日、午後8時50分。それより前にもならないし、後にもならない。
 だから自分のすべきことをきちんと見極めて、それを効率的に実行して欲しいね ―― 恩に着せるつもりはないけど、膨大なリストから悩んで悩んで、悩み尽くして、あんたを選んだんだからさ」

「・・・本当に、本当の話なんだな」、と俊輔が低い声で言った。
「本当の話って、あんたが死ぬこと?」、と死神が右の耳たぶを引っ張りながら言った。
「ああ」、と俊輔は言った。
「まだ、信じらんねぇの?」、と死神は言った。

「いや ―― 最終確認をしただけだ。分かった」
 と、俊輔は大きく息をついて言った。
「・・・あっそ?じゃ、俺はいったん消えとくわ。夢だったのか?なぁんて思われると困るから、時々様子を見に来るけど ―― ただ今後はここじゃなくて、品川とか、そっちの方に行くことにする。なぁんかここ、空気の感じが悪くって、肩こるから」
「品川は駄目だ、あそこには稜がいる」
 慌てて俊輔が言ったのに、死神はやれやれ。とでも言いたげに首を左右に動かした。
「あのねー、あんた、人が死ぬ場面に普通以上に居合わせてるだろ?そのとき、死神の姿なんて見たことあるか?」
「・・・いいや」
「だろ?死神ってのは基本的に、死ぬ本人しか見えないようになってんの。ま、俺たちもこういう場合以外、いちいち挨拶して回ってる訳じゃないけど、でも必ず室内とか、近くにはいるんだよ。でも見たことないだろ?だから、問題なし。ノープロブレム」
「・・・それならいいが」
「んじゃ、そういうことで」
 と、言うが早いか、死神の姿は一瞬にして、空気に溶けるように消えた。

 俊輔はその後しばらく、死神の消えたその場所を眺めていたが ―― やがてため息をつき、デスクの上の電話を取り上げた。

「今日から10日間 ―― ですか?」

 話がある、と言われて俊輔の前にやってきた三枝は言い、ちらりとソファに座る永山に視線を流した。
 その視線は珍しく困惑したものだったが、困惑しているのは永山も同様であった。

 つい先ほどまでそんなことは一言も言っていなかったというのに、突然、
“今から10日間、休みを取りたい”
 などと言われれば、驚くのは当然であった。

「・・・俺がこの十数年、休みらしい休みをとってこなかったのは知っているはずだ。たまには休みくらい、とってもいいだろう。
 それに今はちょうど、急ぎの仕事もなかったはずだ。違うか?」
 と、俊輔は社長室の大きな窓から外を眺めながら、訊いた。
「・・・確かに今現在、差し迫った案件はございませんが・・・」
 スケジュールが書き込まれているファイルを繰りながら、三枝は言った。
「しかしご承知のとおり、予定は既に完全に埋まっています。
 休暇を取られることに反対はいたしませんが、もう少し余裕を持った計画にしてはいかがですか?例えば1ヶ月後などでしたら、無理なく調整は可能なのですが」

 その言葉を聞いた俊輔は、ゆっくりと振り返って三枝を見る。
 当然ながら1ヶ月後の休暇など何の意味もないわけで、俊輔はきっぱりとしたやり方で、首を横に振った。

「いや、駄目だ。どうしても今日からの調整がつかないというのなら、明日から ―― いや、明後日からでもいい。とにかく出来るだけ長い日数を押さえてくれ。
 無茶なことを言っているのは重々承知だ。二度とこんな我儘は言わないから、何とかスケジュールは調整してくれ」

「 ―― 何か、あったんですか」
 と、静かに永山が訊いた。
「・・・いや。別に何も」
 と、答えた俊輔は再びぐるりと身体の向きを変え、窓から赤坂の夜景を見下ろす。

「・・・どうしても先延ばしに出来ない予定が、いくつかございます」
 俊輔の声音に、説得は難しいと悟った三枝が、スケジュール表を子細に点検してから、言った。
「それを明日と明後日の午前中くらいまでにまとめて対応していただいて ―― 明後日から7日間のスケジュールを白紙に致します。
 その辺が限界かと思われます。申し訳ありませんが」
「・・・分かった。それでいい」
 と、俊輔は言った。
「・・・他に何か、お手伝い出来ることは?」
 と、三枝は言った。

 許された10日というモラトリアムの間、出来るだけ仕事をせずに稜の側にいることは決めていた俊輔であった。
 が、その期間中、具体的に何をするかは考えていなかった。

「・・・そうだな ―― その間、出来るだけ観光客の類がいない、静かな旅館か何かを貸し切っておけ。
 スケジュールは、木曜の早い時間に東京へ戻ってこられるように組んでくれ」
 少し考えてから、俊輔は命令した。

 そのスケジュールであれば、タイム・リミットである再来週の金曜日はまるまる、死んでゆくための最終的な準備をすることが出来る ―― そう考えたところで、俊輔は思わず笑いそうになる。

 自分が死ぬ瞬間の、時間までをも明確に把握し、その準備をする。
 なんてシュールなんだ、と思った。

 俊輔の前から消えた死神はその足で ―― その翼で、というべきかもしれない ―― 品川のマンションにやって来ていた。
 室内には一人の男がいる ―― 志筑稜。

 死神が部屋に着いたのとほぼ同時に、数人の舎弟に送られて外出先から帰ってきた稜は、提げていたビニール袋の中身を戸棚や冷蔵庫にしまってから、ミネラル・ウォーターを手にリビングのソファに座った。

 稜は手にしたペットボトルを開けるでもなく、空中でゆらゆらと揺らすようにしながら、あらぬ方を眺めている。
 その稜の厳しい ―― 悲愴感すら漂う暗い表情を見て、死神は微かに顔を歪めた。

 むろん死神は稜に起こった数々の悲惨な出来事を、詳細に理解していた。
 俊輔の一生を吟味する上で、稜との出来事は適当に早送りしてしまえるものでは、もちろんなかったから。

 だがそれを理解していても、死神は稜に対して、反射的に苛立ちのような気持ちを抱かずにいられなかった。

 なんでそういう表情を俊輔に見せないんだよ、と死神は吐き捨てるように思う。
 それが稜の思いやりであり、俊輔への愛情の形であるのは想像出来るが ―― 結局の所、あの傷は稜がその一個人で隠し通せるものではないはずだ。
 更に言えば、あの出来事から生じる苦しみや痛みは100%、俊輔と稜、2人で分け合わなくてはならない種類のものだ。

 それをこの志筑稜は無理に隠し、そこから湧き出る血にまみれたような葛藤を押し殺し ―― 自分の傷を癒すのは二の次にして俊輔の精神を過保護なまでに守ろうとする。
 そんなことをやっているから、俊輔は肝心なことを何一つ理解せず、挙げ句独り取り残されて、あんな風に、・・・ ――――

 そこまで考えた所で死神は強く頭を振り、強制的に思考を停止させた。
 恋人を失った後の稜の姿は、死に纏わる悲劇を散々見てきた死神をして、あまり頻繁に思い出したくないものであったのだ。

 死神はため息をつき、もたれていた壁から背を離す。
 今日はもう、俊輔にも会うつもりはなかったので、帰るつもりだった。

 だが ―― 死神が身体を起こした瞬間、稜が弾かれたように顔を上げた。
 上げられた顔からは一瞬にして、音がするような勢いで、血の気が引いてゆく。

「何だお前・・・どこから入ってきた・・・!?」
 立ち上がるのと同時に、稜が叫んだ。

「・・・へ?」
 射るような目線で稜に睨みつけられた死神はぽかんと口を開けたまま、言った。