:: 風花の記憶 1 ::
待ってください、というあたしの声を聞いて振り向いた彼の表情を見た瞬間、あたしは少し、悔しくなった。
彼の雰囲気の奥底に、してやったり、というような色があるように感じたのだ。
でももう今更、どうしようもなかった。
言ったことは取消せないし、何より彼が“リョウは君とは会わない”と言った言葉が変えようのない事実であることを、あたしは直感していた。
だったら少しでも、例え1時間でもリョウくんの話を聞きたかったし、リョウくんにあたしの想いを知ってほしかった。
それにそうすればもしかしたら ―― ほとんどない線だろうとは思ったけれど ―― あたしの話を聞いたリョウくんが考え直して、連絡をくれるかもしれないとも思った。
その後辻村、と名乗った男の人は出した条件を再度明確に約束させてから、ついて来なさい。と言ってあたしに背を向けた。
辻村さんの動作には一分の隙もなかったけれど、それと同じくらいあたしに対する気遣いのようなものもなかった。
彼の背中には、あたしがついて来ようが来まいが、どうでもいい。という突き放した意志が透けて見えた。
あたしはその背中を見つめたまま、数秒間、激しい躊躇いと共に立ちすくむ。
彼について行っても大丈夫なのか。
危ないことになったりしないのか。
何が、どこが、と後で訊かれても、さっと答えを返すことは出来なかったと思うけれど、彼にはどこか、明らかに、普通ではない恐ろしげところがあった。
でもあたしは結局、リョウくんに続く道を断ち切ることは出来ず、小走りに彼の後を追った。
母があたしの本当の母でないということを知ったのは、高校に入学した年の、冬だった。
誰かに聞いたのではない。
調べた訳でもない。
念のためにはっきりと言っておくが、母が意地悪だったなどということでもない。
あたしと弟を入れてうちには4人の子どもがいたけれど、母は(母の本当の子供ではなかった)あたしや弟を他の子と同じように可愛がり、そして叱ってくれていたと思う。
少なくともその年になるまで、母が本当の母であると、信じて疑わなかったくらいには。
ただ、あたしは思い出したのだ、唐突に、思いがけず ―― それはもしかしたら、ヘレン・ケラーがサリバン女史の努力によって、ウォーターという言葉を本当の意味で“理解した”瞬間と、似通っていたかもしれない。
そう、本当の母のことを思い出すきっかけとなったのは、ごくごく些細な出来事からだった。
高校からの下校途中に、駅までの道を訊かれた ―― それだけだ。
しかもその出来事自体は、そう珍しいことではなかった。
あたしが通っていた高校や自宅付近の道は込み入っていて、初めて来る人には分かり辛かったから。
だからあたしも何気なく訊ねられた駅までの道を答えて、それでその出来事は終りになるはずだった。
しかし駅までの道を答えた後で道を少し行ってから、あたしはふと、心に小さな引っかかりを感じた。
最初のうちは、気のせいだろうと思った。
道を訊ねた男の人はちょっと人目を引く格好いい男の人だったし。とか、そんな風に考えたりもした。
けれどゆっくりと家に向かって歩くうち、あたしは自分が気になっているのが、道を訊ねた彼ではないことに気付いた。
道を訊ねた男の人の隣に、あたしから軽く顔を背けるようにして座っていた人。
窓にフィルターが貼られた車の中だというのにサングラスをかけた、細身の男の人。
あの人を、あたしは知っている ―― そうだ、あれは ―― リョウくん。
まるで電流にうたれたように名前を思い出した瞬間、あたしは全速力で、彼らが乗っていた黒い大きな車が停まっていたところまで駆け戻った。
5分も経っていなかったと思うけれど、そこに車はもう、影も形もなかった。
あたしはすぐに街中のあちこちを駆け回るようにして、車を探した。
無駄だと思いながらも、諦められなかった。
そうやって街のあちこちを歩き回る間にも、まるでたがが外れたように記憶が蘇ってきて、あたしは半泣きだった。
父の手に引かれて向かった白い建物の中、笑ってあたしを迎える女の人の、細い細い手と、甘い香り。
そこであたしはそのひとを、おかあさん、おかあさん、と呼んでまとわりついていた ―― そう、おかあさん、・・・あたしと弟を見て目を細めるおじいちゃんとおばあちゃん・・・、そう、そして ―― リョウくん。
おかあさんがよく、リョウ、あなた、仕事は大丈夫なの?と訊いていて、その度に、今暇なんだよ。と答えていた、リョウくん。
時々苦しげにしているおかあさんの身体を、黙って、静かに、優しく、いつまでも、いつまでも撫でていたリョウくんの手と、おかあさんを見下ろす不安げな表情。
そのリョウくんの綺麗な顎のラインを、あたしは斜め下から見上げていた ―― その記憶のなかにある曲線のかたちは、あの車の奥にいた人のそれと、同じだった。
ああ、どうして ―― どうしてあたしはこんな大切なことを、忘れていたんだろう。
どうして父は、こんな大切なことを話して聞かせてくれなかったんだろう。
日が暮れて、夕闇が濃くなって、夜も更けた頃にあたしはようやく諦めて ―― 諦めざるを得ず ―― 家に帰った。
心配して、同時に怒って出迎えた父と母に、あたしは思い出した全てのことを、途切れることなく沸き上がる疑問の全てを、ぶちまけた。
そうして、あたしは全てを知ったのだ。
あたしと弟には目の前にいる母とは別に、“生みの母”がいること。
そのひとは弟を生んだのと同時に病気が見つかって、闘病の末に死んでしまったこと。
子供にはショッキングな出来事だからと、それを極力口にしないようにしていたこと。
忘れることが可能であるのなら、あんな悲しい出来事は忘れた方が、今後の為にもいいと考えたこと、・・・ ――――
その後もあたしは言い渋る父を散々問いつめて、リョウくんのことも聞き出した。
そしてあたしは知ったのだ ―― 父がリョウくんに言った、残酷にも残酷すぎる、あの言葉を。