月と風花

:: 風花の記憶 2 ::

 辻村さんはあたしを連れて、マンション脇の路地を少し入ったところにある喫茶店に入った。

 店の一番奥のテーブルに向かい合って座り、注文を済ませ、注文したもの(辻村さんはコーヒーで、あたしがミルクティー)が来てからも、あたしたちは無言で向かい合っていた。

 時間が区切られているのはもちろん、分かっていた。
 文字通り1分1秒も惜しむべき、という状況であるということも、分かっていた。

 けれどいったい何をどこから訊けばいいものやら、あたしにはさっぱり分からなかった。
 と、いうかそもそも名前の漢字すら馴染みのない、子供のころの曖昧なセピア色の記憶の中にいる“リョウくん”について、あたしはほとんど何も知らない。
 お父さんに訊いても、話したくない以上に元々リョウくんとは特別親しくしていなかったらしく、その話は何を訊いても要領を得なかったのだ。

「ところで」
 小さな音と共に、コーヒーをかき回したスプーンをソーサーの上に戻した辻村さんが、ふいに、言った。
「一体君はどうやって、あのマンションにリョウが関係していることを知ったんだ」
「・・・あたしが、答えるんですか」
 と、あたしは言った。
「ここへは、リョウくんの話をしに来たはずなのに」
「・・・話のきっかけを作ってやろうとしただけだ」
 半ば虚勢を張ってあたしが言ったのに気を悪くする風もなく、辻村さんは言った。
「答えたくないのなら、答えなくても俺は一向に構わないが」

 そう言って唇の右端だけを歪めるようにして笑った辻村さんを見てあたしは、本当によく分からない人だ、と思った。

 あたしは自分で言うのもなんだけれど、相当勘がいい方だと思う。
 これまで対する人の人となりは、少し会っただけで大体の方向性を理解してきた。
 しかし今、目の前にいる辻村さんのことだけは、何度見直してみても、そのたびに掴み所がなくなってゆく気がした。

 一見した瞬間は、怖い人だと思った。
 少し話をしただけの時は、冷たい人だと感じた。
 でも ―― こうして向かい会う時間が長くなればなるだけ、どんどん分からなくなる。

 怖くて、優しくて、冷たくて、暖かくて、傲慢で、悲しくて、面白くて ―― そんな滅茶苦茶に相反する言葉を使って表現をすべき人がいるとしたら、こんな人じゃないかと思った。

「・・・、聞いたんです」、とあたしは言った。
「聞いた?」、と辻村さんは言った。
「はい。リョウくんが勤めていた会社の、同僚の方に。昔一度父に連絡があったらしくて、事情を話したら会って下さったんです」
 辻村さんは何も言わず、それで?という風にすっと目を細めて、話の続きを促した。
 つり込まれるように、あたしは続ける。
「会って話をしているうちに、その方が思い出して下さったんです ―― リョウくんが以前、六本木のマンション前で古い友人に会った、と言っていたのを・・・後にして思えばその頃からリョウくんは少し変わったような気がする、って」
「・・・なるほどね」
 と、辻村さんは言った。
「それで、あのマンションのことを知った訳か」
「いえ、そうじゃありません」
 と、あたしは首を横に振った。
「その方は六本木のマンション、というのは聞いていましたが、名前までは聞かなかったと言っていらしたので」

「・・・しかし・・・、それだけじゃどうしようもないだろう。六本木にマンションなんて、山ほどある」
「ええ、ですから六本木のマンションを全てピック・アップして、ひとつひとつ回っていたんです。何回か通ってダメそうなら次、っていう具合に ―― あそこは13カ所目のマンションでした」

 と、あたしが答えると辻村さんは薄く口を開けてまじまじとあたしを見ていたけれど ―― しばらくしてから、喉を反らして笑いだす。

 今の話に笑うところはあったかしらと内心不思議に思いながら、あたしは大人しく辻村さんが笑い終えるのを待っていた。
 しかし辻村さんは待てど暮らせど笑いやめず、あたしは徐々にむっとしてくる。

 辻村さんが何をそんなにおかしがっているのか、あたしにはさっぱり分からなかった。
 リョウくんに会える可能性があるのなら、そのくらいのことをするのは当然じゃないの、と思った。
 なんだか馬鹿にされているような気すらした。

「・・・おかしいですか」
 むっとした口調を前面に押し出して、あたしは訊いた。
「・・・、・・・いや ―― 失礼」
 笑いを消しきれない口元を右手で押さえて、辻村さんは謝った。
「だがしかし ―― そういうの、リョウにも通じるところがあると思ってな」
「リョウくんに・・・?」
 と、あたしは訊き、辻村さんは頷く。
「そう ―― 融通が利かなくて、頑固で、これと思って決心して、突っ走り始めたら周りが見えなくなる・・・こういうの、もしかして君もよく言われているんじゃないのか」

「よく言われます、それ・・・」
 と、あたしは言った。
「 ―― 同じだよ。リョウと」
 と、辻村さんは静かに言った。

 そこから口がほぐれ、あたしたちは色々な話をした。
 話しているのはほとんどの場合があたしだったけれど、辻村さんは時々、ちゃんと聞いている、とでも言うように頷いたり、あたしに向かって微笑んでくれたりした。

 リョウくんが目の前にいたらきっとそっくりそのまま、同じ反応をするのではないかとすら思い ―― そして ―― そう思った瞬間に、あたしは理解する。

 そうだ、あたしはリョウくんのことを知りたいというより(それもちろんあったけれど)、自分の話をこんな風にリョウくんに聞いて欲しかったのだ。

 あたしはリョウくんと話をしてみたかった。
 子供の頃のようではなく、きちんとした大人として、話をしてみたかった。
 そう出来るようになるまで、リョウくんに色々なことを見ていてほしかった。
 きっとリョウくんは要所要所で、あたしの周りにいる人たちとは全く異なる観点から、目の覚めるようなアドヴァイスをしてくれたに違いない。
 それを耳にしていれば、人生すら今とは違うものになったのではないか、・・・ ――――

「・・・どうした?」

 ふいに会話を途切れさせたあたしに、辻村さんが言った。

「・・・くやしい、です」、とあたしは言った。
「くやしい?」、と辻村さんが言った。
「だって・・・父があんなことを言わなければ、いまここにいるのはリョウくんだったと思うんです。
 父の勝手な独りよがりで、何もかも、全部あたしから切り離してしまったなんて ―― あたし・・・忘れてしまっていた自分も許せないけど、それ以上に父を許せません。許しません、一生 ―― 絶対に、絶対に、許すことなんか出来ない・・・!」
「いけない・・・!」

 震える声で言ったあたしの言葉を、辻村さんが唐突に、激しく遮った。
 怒鳴るように言ったのと同時に辻村さんの右手が口調と同様のやり方でテーブルを叩き、びっくりしたあたしは俯かせていた顔を上げる。
 その拍子に必死で堪えていた涙がひとすじ、あたしの頬を伝い落ちたけれど ―― 辻村さんはそれに構うことなく、

「駄目だ、いけない。君はそんなことを言っちゃいけない」

 と、激しく、続けた。