:: 月の願い 4 ::
稜とそんなやりとりを交わしてから数日後、再び彼女が六本木のマンション前に姿を現したという一報が入った。
すぐに三枝の手によって、その辺り一帯を幾重にも取り囲むように、人員が配置される。
俺と彼女が会っている間、極道関連の人間を辺り一帯から完全に排除するためだ ―― 稜に言ったように俺と一般人が一度や二度会っただけで手を出される可能性は、ほぼないと言っていい。
だが稜が“みずきとその関係者に何かあったら、姉さんに申し訳がたたない”と言ったのと同様、こんなことをして万が一少しでも妙なことになったら、俺は祥子さんと稜に申し訳がたたない。
つまり念には念を入れた、という訳だ。
「稜のことを、探していると聞いたが」
植え込みの脇に座っている彼女に、俺はそう声をかけた。
通常ならもう少し捻った問いかけをするだろうが、あの祥子さんの娘であることを考えると、そういう小手先の誤魔化しが有効であるとは思えなかった。
最後にずるずると本当のことを言う羽目になるのなら、最初から本当のことを ―― 言えることと言えないことは、もちろんあるが ―― 言うのがいいだろうと思ったのだ。
彼女は弾かれたように顔を上げて俺を見て、立ち上がる。
「リョウくんを、知ってるんですか?」
と、彼女は俺に掴みかからんばかりの勢いで、訊いた。
俺は頷く。
「・・・、ああ。知っている」
「今どこにいるのかも、ご存じですか?」
「それも知っている。しかし・・・」
「 ―― あなた・・・あの時の・・・!」
じっと俺を見上げていた彼女がそこで、俺の言葉を激しく遮って叫んだ。
「以前私が通っていた高校の前で、道を尋ねた ―― あの時の人でしょう?そうですよね?」
そう言われた俺は、呆然として返す言葉を見失う。
だってそうだろう、まさかそんなことを言われるとは、夢にも思わなかったのだ。
確かにあの時、彼女に声をかけたのは俺だ。
だがあれはもう3年近くも前の話で、しかも話をしたのはほんの数分だけで ―― それだけのことで彼女が俺の顔を覚えているとは、予想もしなかった。
しかしそういえば稜も、人の顔を覚えるのが早くて正確だった。
会ったと言うよりすれ違っただけというレヴェルでしか関わっていない舎弟の顔と名前を、かなり後になって正確に呼んだりして、驚かされることがこれまでに何度もあった。
祥子さんが同じだったかは知らないが、これも血か、と俺は思い ―― 思いながら、これはもう駄目だ、と考えていた。
全く、稜の関係者の言動には昔から、つくづくと驚かされる。
彼女が持つ人の顔を覚える才能が血なら、これも脈々と受け継がれる血のなせる業なのかもしれない。
だが暢気に感心している場合ではなかった。
元々考えていた筋書きは、彼女が俺を覚えていたことで完全に無意味なものとなった。
とにかく早いところ計画を立て直してペースを自分のものにしなければ、例によって例のごとく、志筑の血が有する荒波に足下を掬われてしまう。
「・・・ああ ―― あの時のことを覚えている?」
と、俺は言った。
「はい・・・実はあの時を皮切りにして、色々なことを思い出したんです」
と、言った彼女の表情は何故か、どことなく悲しげだった。
それが少々気にはなったが、気づかない振りをして、俺は続ける。
「それで、君は稜にどんな用なのかな」
「会って、話をしたいんです。聞きたいことが色々とあるし、とにかくリョウくんが今どうしているのか、知りたいんです ―― お願いです、リョウくんに会わせて下さい」
「それは無理だな」
と、俺はきっぱりと言った。
「・・・、どうしてですか?」
と、彼女は訊いた。
「色々と複雑な事情がある。彼は君には会わない。彼がここに来ることもない。つまり君がここでいくら彼を待っても、意味はない。単純に時間が無駄になるだけだ」
極力機械的に突き放す口調を作って俺は言い、それを聞いた彼女はきゅっと唇を噛んで俯いた。
「・・・お父さんのことを、怒っているから・・・?」
やがて彼女が、呟くように言った。
「前に、ひどいことを言ったって、・・・だから、私に会いたくないの・・・?」
「・・・、君のお父さんが彼に何を言ったのかは知らないが、彼はどんなものに対しても、怒ってはいない」
と、俺は言った。
そう、稜は全てを許しているのだ ―― 俺のことですら。
「彼が君と会えないというのには、君とは全く関係のない理由があるんだ」
機械的にしていた口調を和らげ、できる限り真摯に言ったつもりだったが、それでも彼女は顔を俯かせたまま微動だにしない。
伏せられた長い睫が複雑なかたちに震え、その根元がしっとりと湿ってゆくのが分かった。
「 ―― 分かった。じゃあひとつ、提案がある」
負けたよ。と思った俺は(そもそも志筑家の関係者に勝てたことなどないのだが)、言った。
「リョウくんに、会わせてくれるんですか!?」
再び顔を上げて、彼女が言った。
「いや、それは無理だ。さっきも言ったが、彼は決して君とは会わない。
だが ―― 彼が今どうしているか、教えてやることはできる。俺がね」
「・・・あなたが・・・?」
「そう。ただし、条件はあるが」
「・・・条件?」
「ああ。俺にも予定があるのでね ―― と俺はスーツの内ポケットから携帯電話を取り出し、そのディスプレイで時刻を確認した ―― そうだな、今から1時間。1時間、君と稜の話をする。それが終わったらもう二度と、稜を探さないと約束すること。それが条件だ」
「・・・そんな・・・、そんなのって・・・」
「イエスと言えば、君はこの後1時間、稜に近い世界に触れることが出来る。だがこの条件が呑めないというのなら、君は一生、稜のことを何ひとつ知らずに終わるだろう。
繰り返すがここに稜が来ることは絶対にないし、君がどんなに調べても、稜に繋がる糸はその糸くずすら、掴めない」
「・・・そんな ―― でも・・・でも、1時間なんて・・・そんなのってないです。
それに私・・・、リョウくんに直接会いたいんです、どうしても・・・」
たどたどしく彼女が言い、俺はそれを聞いて肩を竦める。
「そうか。では交渉は決裂、というところだな ―― そういうことなら俺はこれで失礼する」
言い放った俺はあっさりと、何の躊躇いもなく踵を返す。
ここで追いかけてこなかったらどうしようと一抹の不安はあったが ―― 彼女は慌てて、飛び上がるようにして、俺のコートの裾を掴んだ。
「ま、待って ―― 待って下さい・・・!」
内心ほっとしながら、それを完璧に隠しながら、俺は振り返って彼女を見下ろす。
彼女はひとつ深呼吸をしてから、話を聞かせて下さい。と、泣きそうな声で言った。