月と風花

:: 月の願い 2 ::

 その後とりあえず外で稜に食事を取らせてから ―― 最近は一緒に食事をすると、自分が食べるよりも稜に食べさせることの方に比重が傾いている俺だった ―― 稜だけ先に品川のマンションに帰らせた。
 出来れば一緒に帰りたかったのだが、どうしても俺が顔を出さなければならない用件が、いくつかあったのだ。
 しかもそういう時に限って細々とした問題が起きたりして、結局俺が品川に帰れたのはギリギリ今日のうち、という時間だった。

 しかしとりあえず、明日の午前中いっぱいのスケジュールを三枝に調整させ、開けさせてある。
 今日のことはその時話せばいい ―― そう思って風呂に入って出てきてみると、寝ていると思っていた稜がリビングに座っていた。
 物音がしたので起きてきたか、もともと寝ていなかったのか ―― 恐らくは後者なのだろう。

「何か飲むか?」
 黙って前に座った俺を見て、稜が訊いた。
「・・・お前と同じでいい ―― 何だ、それ?」
 稜が手にしているマグカップを顎で指して、俺は訊いた。
「麦茶」、立ち上がってキッチンに向かった稜が、答えた。
「麦茶?」、驚いて俺は繰り返す、「この時期にか?」
「うん、そう ―― 暖かいのだけどな」
 笑いながら、稜は言った。
「夏のが少し残ってたから試しにお湯で淹れてみたんだけど、むしろ冷たくして飲むよりも美味しくてさ。だからそこのスーパーで叩き売られていたのを、全部買ってきた」
「ふぅん・・・」
「少し前に菖蒲さんが遊びに来たんだけど、出したら美味しいって関心してたよ。自分も買うって言ってた」
「・・・へぇ、・・・」

 あの菖蒲がスーパーで安売りしていた麦茶を飲んで美味しいってか、・・・と俺は内心、突っ込まずにはいられない。
 あの女は稜が出すものであればもう、何でもよくなっているんじゃないか?

 だが稜が出してくれた暖かい麦茶は、確かに冷たくして飲むより香ばしさが増して感じられるようで、美味しかった。
 まぁ ―― 人のことは言えない、俺もある意味、稜が言うものなら何でもよくなっているのかもしれない。

 それにしても、菖蒲は一体ここに何をしに来たというんだ?
 恐らくはまた、下らない計画で稜を引っ張り出そうという魂胆なのだろう。
 見てろよ、今度という今度は絶対に計画を未然に暴いて、邪魔してやる・・・・・・

「 ―― で、今日の・・・、みずきのことだけど」
 再びテーブルを挟んで俺と向かい合った稜が、言った。

「・・・ああ、そう ―― そうだな、お前はどうしたい?」
 菖蒲との精神的ファイト・クラブ思考に流れかけていた精神を現実世界に引き戻して、俺は言った。
「今回のことは、出来る限りお前がしたいようにしようと思っているが」
「俺の願いは ―― みずきがあんな風に俺を探すのをやめてくれればなんでも、・・・少し脅したりするのでも、構わないと思ってる」
「・・・お前、それ ―― 本気か?」

 まさかそんなことを稜の方から口にするとは思っても見なかった俺は驚いて、訊いた。
 稜は緩慢なやり方で頷く。

「今までずっと、考えていたんだ。もちろんあんまりひどいことはしないで欲しいけど、一刻も早くあんなことをやめさせて、二度と俺に近づかないようにさせるには ―― そうするのが一番いい気がする。
 手間をかけさせて、悪いけど・・・」
「いや、手間とか悪いとか、そんなことは考えなくていい」
 首を振って、俺は言う。
「確かに普段通りの俺たち流にやると言うのなら悩むことはない、それが通常の手だ。やりなれていることでもあるし、特に大変な仕事でもない、だが ―― だが稜、お前、彼女と直接会って、話をしたくないか?」

 俺の問いかけを訊いた稜が、伏せぎみにしていた視線を弾かれたようにあげる。
 そんな稜の方に身を乗り出して、俺は続ける。

「お前がどうして彼女と会えないと思っているか、俺は分かっていると思う。しかしな、冷静に考えてみろ。
 今回はお前が会いに行くんじゃない、彼女の方からお前に会いに来てるんだ。彼女が自分の意志でお前に会いたいと、お前を探している ―― その場合、その男との約束は無効になるんじゃないか?」

 そう言って俺は口をつぐみ、稜はそんな俺をしばらくの間、黙って見ていた。
 稜の瞳の奥が、逡巡の深さを示すように、複雑に揺らめくのが分かった。

 やがて稜はゆっくりと眼を伏せ、そのまま長いこと、テーブル上のある一点を見つめていた。
 まるでテーブルに視線で穴を開けようとしているようにすら見えた。

 長い沈黙があり、稜がゆっくりと、小さく、首を横に振る。
 そしてそれから最初に顔を伏せたのと逆の経過を辿って俺を見、一度目よりも更にはっきりと強く、首を振った。

「俺は会わない。絶対に会えない」
「どうして。会いたいだろう?
 少し会うくらいのことじゃ、何も問題は起こらないぞ、それは絶対だ、保証する。お前は、 ―――― 」
「“少し”なんかで終わるもんか」
 静かだが確固とした口調で稜は俺の言葉を遮って、言った。
「・・・もし一度でも会って話をしたら、あの子は絶対に、その後も俺との関係を大切にしようと考えるだろう。俺には分かる、誰よりも ―― 姉さんの子だ」

 当然ながら俺はもう、何も言えなくなる。
 まっすぐに俺を見つめたまま、稜は説得するような口調で、続ける。

「そんなことになって、ずるずると会い続けて ―― 万一何かが起きたら、取り返しがつかない。
 あの子には、俺のことは忘れて生きて行って欲しい。そういう意味では今まで会うなと言われるまま会わなかったのは、正解だったんだと思うよ」
「・・・、・・・そうは言われても ―― 俺は未だ、考えるだけで腹が立つぞ。
 お前の両親があんなことになったのを知った上で、最後に残された肉親に会うななんて・・・」
 と、言って俺は半分濡れた髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
「俺も相当冷たい人間だという自覚があるけどな、そこまでのことはなかなか言えないと思うぞ」
「・・・うーん、・・・まぁでもそういうのも、もういいんだ。彼に対して怒ってもいないし、恨んでもいない」

 淡々とした口調で稜は言い切り、俺はむっつりと黙り込む。
 そうして黙り込んだ俺を、稜はどことなく観察するような目で眺めていた。

 その果て、稜は小さく笑い声をあげ、

「 ―― お前さぁ、全然信じてないだろ」

 と、おかしそうに、言った。