月と風花

:: 月の願い 3 ::

「別に・・・、そういう訳でもないけどさ」
 と、俺はぶつぶつと言った。

 その返答を聞いた稜は更に面白そうに笑い、
「そうか?いかにも腹に一物あるって顔してるぞ」
 と、言った。
 そしてテーブルの下の足をずらして、俺のつま先を軽く踏んだ。

 それでも俺は、何も言わなかった。

 彼らが再会出来ない理由は、どう考えても俺にある。
 その元凶たる俺が何かを言う資格は、そもそもないのだ。
 だがそうは思っていても稜の指摘どおり、その男 ―― 祥子さんの旦那だ ―― のやり方に、憤りの気持ちが沸き上がってくるのはどうしようもなかった。

 家族を次々に失った稜が、残された姉の子供にどれほどの愛情を感じていたか。
 俺には想像が出来たし、想像も出来なかった。

 その想いを奪って断ち切る資格など、俺が意見を言う資格がないのと同様、誰にもないのではないか・・・ ―― ?

「まぁ・・・正直なところを言えば、確かに最初は、なんて奴だろうと思ったよ」
 椅子に深く背をもたせて、やがて、稜が言った。
「でも実を言うと俺は、そもそもの最初からあの人にはあまりいい印象を持っていなかったんだ。だから、やっぱりなと思ったのも本当だった。
 大体あの人は、姉さんの入院先にもろくに来なくて、来たとしてもすぐに帰っちゃうような感じだったし」
「・・・なんだ、それ。とんでもないな」
「うん、それもやっぱり、俺も最初はそう思った。
 母さんも父さんも口には出さなかったけど、たぶんそう思っていたと思うよ」
「当たり前だろ、そんなの・・・聞けば聞くほど腹立たしい。俺がその場にいたらそんな奴、病院だろうがどこだろうが、ぶん殴ってる」
 と、思い切り顔をしかめて、俺は言った。
「だろうな、まぁ、いなくて良かったよ」
 と、稜は言って、笑った。
「でも・・・姉さんはちっとも怒らないで、よく言ってた ―― あの人、怖いのよ、って・・・怖くてたまらないんだ、だから長い間ここにいられないんだ、って」
「・・・そういう時に怖いのは、みんな同じだろ」
 と、俺はため息をついて、言った。
「祥子さんには悪いけど、逃げているだけにしか思えないよ、俺には」
「うん、そうだよな。俺もずいぶん後まで、同じように感じてた。
 でもさ、ちょっとした成り行きがあって、それをある時、真由の・・・、・・・」

 と、そこで稜は一瞬、言い淀んだ。
 しかし俺が特に反応を示さなかったので ―― 今更反応するようなことでもない、不愉快という話をするのならむしろ、現在進行形で稜にちょっかいを出す菖蒲の名を稜が口にする方がむっとする ―― 気を取り直した稜は、続ける。

「・・・真由の友達で、看護師をしている人に話してみたことがあるんだ。
 その人は黙って最後まで俺の話を聞いて、頷いて ―― 言ってた。
 気持ちは凄くよく分かるけど、そういう話は珍しくない、って。死と向き合うっていうのは生半可なものじゃなくて、そういう激しいストレスにどれだけ真っ向から対峙出来るかは人それぞれなのキャパシティによる ―― 生まれ持った器の大小は、本人にもどうしようもないことなんだ、って。
 とはいえ他人事ながら、見ていてもっとしっかりしろって、ムカつくこともあるって言ってたけど」
「・・・・・・・。」
「・・・姉さんはそういうのを全て、分かってたんだろうな。
 彼は彼なりに必死なんだって・・・だから姉さんが死んだ後に俺に言ったことも悪気があったわけじゃなくって、あの時の彼は家族を守ることだけで精一杯で、その為には姉さんに通じるものを全て断ち切るしかなかったんだと思う。
 だから ―― もういいんだ。誰かを責めたり、恨んだり・・・そういうのは、もうやめた」

 淡々とそこまで語った稜は、俯かせていた顔を上げて俺を見て ―― 切なげに微笑んだ。
 そして言う、「おい、俊輔 ―― そんな顔をするな」

 ふいに呼びかけられ、俺は稜を見る。

 今、この瞬間、自分がどんな顔をしているのか。
 自分でもよく、分からなかった。

 ただ、ただ ―― 自分がしたことと、望んだこと、その意味や、重さや、 ―― そういうことを、考えていたと思う ―― たぶん。

「前にも言ったけれど、今俺がここにいることは、俺が、自分で、選んだんだ。お前といることを、後悔したことはない。一秒だって」
 噛んで含めるような言い方で、稜は言った。
「でも、あの人たちは違う。俺と関わって彼らに万一何かがあったら ―― 俺は姉さんに申し訳がたたない。
 だから俊輔、頼むから、みずきを俺に近づけないでくれ。今後、もう二度と」

 そこまでを聞いた俺は右手で額を押さえ、強く目を閉じる。
 そして深い呼吸を繰り返し、叫びだしそうなくらいの訳の分からない感情のうねりを、何とか消そうと試みる。
 だが身体のあちこちに渦巻く感情の荒い波は結局、時間の経過がもたらす力によってしか静まらなかった。

 恐らくはとても長い時間、俺はそうしていたと思う。
 稜はその間、何も言わずに黙って待っていた。

 どれほどの時間がたったのかは分からないが、身体中の波が全て凪いだのを確認してから、俺は顔を上げ、稜を見る。

「・・・分かった」、と俺は言った、「ただ、頼みがある。2つばかり」
「・・・頼み?」、と稜は小さく首を傾げて訊いた、「なんだ?」
「俺が彼女と会って、話をしてもいいか」
「・・・お前がみずきと?」

 驚いたように稜が訊き、俺は頷く。
 稜はそれについて少し考えてから、微かに眉根を寄せた。

「でも、それ・・・それこそ危ないことになったりとか・・・しないか?」
「危ないこと?ほんの少し会って、話をするだけだぞ」
 と、言って、俺は笑った。
「それだけで危ないことになるんだとしたら、ヤクザに道を聞いただけで危険ってことになる。お前が言うように今後何度も会うというならともかく、俺も今回だけしか会わないし ―― それに何より、彼女のことを他の奴に頼みたくない。そう思わないか?」
「・・・ん・・・、それは確かにそうかも」
「そうだろう。大丈夫、心配することはない。うまいこと説得してみせる」

 俺がそう断言するのを聞いた稜は、再び少し考えてから頷き、
「じゃあ、それで構わない。他の人に行かれるより、お前が行ってくれるならそれが一番いいと思う。頼むよ」
 と、言った。
「任せろ」
 と、俺は言った。

「・・・で?」
「・・・ん?“で”って?」
「さっき、2つ頼みがあるって言っただろう。今のが1つ目だから、2つ目は?」
「ああ、そう、うん、2つ目ね」
 俺は言って真っ直ぐに稜を見たまま、テーブルについた右手で顎を支える。
「2つ目はな ―― 今すぐ抱きたいんだけど、抱いてもいいか?」

 俺が言った瞬間、虚をつかれたように稜はぽかんとしてから ―― さっと頬を上気させて顔をしかめる。

「な・・・、何を言ってるんだお前は。アホか」
「アホとは何だよ。傷つくな」
「嘘をつけ。お前がこんなことくらいで傷つくもんか」
「アホの次は嘘つきよばわりかよ。愛しい恋人に向かって」
「何が愛しい恋人だ。自分で言うな」
「愛しくないのか?」
 と、俺は大真面目に訊いてやる。
 稜はぐっと言葉に詰まり(こういう嘘をつききれないところが、つくづくと面白い)、呆れ果てたという風を取り繕って、そっぽを向く。
「・・・大体お前は殊勝げにそんなことを訊いて、もし俺が駄目だとか嫌だとか言ってもやりたいようにやるんだろ。真面目に答えるだけ馬鹿馬鹿しいんだ。いつも」
「そんなことはない。嫌だと言われればやめる」
「よく言う、・・・」
「嫌なのか?」
「・・・・・・嫌だ」
「本当に?」
「・・・、・・・もう・・・、本当に嫌いだ、お前」
「ふぅん?ついさっき、好きだって言ってたのにな」
「・・・ついさっきっていつの話だ。言ってないし」
「そういうふうに、聞こえたけど」
「耳がおかしいんじゃないのか。くだらないことを言ってないで、耳鼻咽喉科にでも行ってこい」
「この時間まで診療している耳鼻咽喉科は、日本中どこを探してもないだろうな」

 俺は言ってゆっくりと立ち上がり、テーブルを回って稜に近づいてゆく。
 稜は相変わらずそっぽを向いたままだったが、伸ばした俺の手を、避けようとはしなかった。