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「 ―― よりによって京都か」
稜に付いていた舎弟からの報告と、急ぎ三枝が調べた報告を全て聞いた俊輔は、苦々しげに言った。
「はい ―― 尚、嵐山にある老舗旅館を1週間貸り切っておられますので、宿泊はそちらになるかと」
と、三枝は言った。
「宿泊?」
剣呑な言い方で俊輔は繰り返し、三枝は淡々とうなずく。
「東京を出たのが10時頃だったとのことです。平日なのでスムーズに走るとしても、京都に到着するのは3時過ぎになるでしょう。
恐らく最初から、あちらに宿泊する心づもりでいらしたのではないかと思われます」
「・・・一週間もか?」
「さぁ・・・、そこまでは分かりかねますが」
「 ―― ふざけるな、冗談じゃない。だったらすぐに、・・・」
「無駄だと思います」
俊輔が言いかけた言葉を遮って、三枝は言った。
「 ―― 何が?」
と、俊輔が訊いた。
「京都まで志筑さんを迎えに行け、とおっしゃるのでしょう?」
と、三枝は言った。
俊輔はぐっと言葉に詰まり、そんな俊輔から手にした資料に視線を移し、三枝は続ける。
「しかし例え豪さんや船井さんが行ったとしても、菖蒲さんが素直に志筑さんを帰すとは思えません。
会長が直接出向かれるしかないでしょうが、今日明日の予定を白紙にすることは不可能です ―― お分かりとは存じますが」
俊輔は黙った ―― そう、確かに今は、時期が悪い。
1年に1度、全国の駿河会関係組織が本家に集まって行われる大規模な会合、それがちょうど明日までなのだ。
むろんその場から会長である俊輔が姿を消すわけには行かず、明日の夜から次の日の午前中までは見送りやら何やら、俊輔が顔を出さねばならない場面は山ほどあった。
むろん菖蒲は、そんなことは全て、承知の上だろう。
俊輔が決して来られない隙を狙って計画を立てたことは、明白だった。
思い切り顔をしかめたまま黙り込んでしまった俊輔に、
「菖蒲さんといるのであれば他の組織は手を出せませんし、心配はいりませんよ」
と、船井が慰めるように言い、
「そうそ、菖蒲嬢の警護は鉄壁ですからね ―― ま、会長は2日間、一人寝で寂しいでしょうが」
と、永山もからかいと同情がマーブル模様になった口調で、言い添えた。
それらの言葉に俊輔は一切、反応を示さなかった。
京都に向かう車中で出されたおにぎりの具の数に呆然としたり(志筑さんの好みが分からなかったので、考えつく限りの具を片っ端から握ったのだと、菖蒲は言った)、
到着した京都で売っていた1粒千円近くもするいちごを山ほど買うのを見て仰天させられたり(1粒食べてみるようにと菖蒲に言われ、当然美味しかったので(この値段を出して美味しくなかったら詐欺である)誉めたら、それでは、とばかりに菖蒲が大量に買ったのだ)、
菖蒲のお茶の道具を買うのに付き合ったり(途中まで値段の0の数を数えていた稜だったが、途中から気が遠くなってやめた)、
菖蒲の行きつけの店に夕食としてうどんを食べに行ったり(豆腐の懐石という話はどうなったのかと稜は思ったが、それは明日か明後日にしましょう、と菖蒲はあっさりと言った。明日か明後日・・・?)、・・・・・・
そうこうして嵐山の旅館に着いてみると、時刻は既に夜の10時を回っていた。
途中、これはもう今日中に東京に帰ることは出来ないだろうと思ったので何も言わなかったが ―― まさかこんな事になるとは思いもしなかった稜は軽くため息をつく。
俊輔は心配しているだろうか、怒っているだろうか ―― 多分両方だろうな。と考えながら、稜は部屋のふすまを開け放つ。
高台にあるその旅館の大きな窓からは、桂川と、その向こうに広がる嵯峨野の景色が一望に出来た。
人の気配は全く感じられず、ただ川のせせらぎと風が吹くのにあわせて竹林がざわめく音のみが聞こえてくる。
東京では絶対にあり得ない、京都独特と言ってもいいような静けさだった。
そんな景色と雰囲気をしばし眺めてみてから稜は再度小さく息を吐き、部屋の片隅に据えられた電話へと、足を向けた。
明けて次の日は当初の目的どおり、菖蒲の着物を仕立てるのに付き合い、その後で観光客のいない場所を選んで紅葉を見に行った。
途中、ひっそりとした茶屋に立ち寄って和菓子と抹茶を口にしたり、聞いたことのない名前の寺院を散策したり、雑貨屋や扇を売る店を戯れに覗いたり ―― 菖蒲は正に気の向くまま、思いつくまま、といった風に稜をあちこちに連れ回した。
普通であればそんな風に他人に振り回されることを、稜は絶対に快しとしなかっただろう。
だが稜は ―― それは自分でも意外に思うことだったが ―― この小旅行をそれなりに(舎弟たちが本当に大丈夫なのか、などなど、多少の心配はあったけれど)楽しんでいた。
これまではどちらかというと、緊張感漂うシチュエイションで対峙することが多かった菖蒲の、意外と奔放な感情表現を稜は好ましく思ったし、何より彼女の竹を割ったような明晰さは、話をしていて非常に気持ちが良かった。
着物を仕立てるのと同様、予定通り豆腐の懐石を食べる頃には2人はすっかり打ち解けており、食事の最後、挨拶に出てきた店の女将が、
“駿河さまには、ごきょうだいがいらしたんですねぇ”
などと、真顔で言っていたくらいであった。
相手が菖蒲でなければ、こんな気分には絶対になれなかっただろう ―― その夜、再び帰った旅館で深夜、なんとなく眠れずに起き出した稜は、離れと母屋をつなぐ廊下をゆっくりと歩きながら、思う。
どこかでほんのひとつでもボタンを掛け違えたら、菖蒲と知り合うことも、当然こうして共に旅行をすることもなかったのだ、とも。
そう考えるとなんとなく感慨深いような気分にもなったが、思えば思うほど、ここにこうしている自分がとても奇妙なものに感じる。
何の日でもない平日に、目的も予定も帰る日付も何も決めずに京都に来るなど、数年前の自分であれば想像もしなかったことだ。
しかもその事実に対して焦燥めいたものを全く覚えない自分というのも、不可思議なものだ、・・・ ――――
手入れの行き届いた庭を眺めながらぼんやりとそんなことを考えていた稜は、廊下の向こうから菖蒲がこちらに向かってやって来るのに気付き、寄りかかるようにして立っていた柱から身を離す。
「 ―― 眠れませんか?」
ひっそりと稜の隣まで歩いてきた菖蒲が、静かな声で、訊いた。