Modern Love

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「いえ、そういう訳ではないのですが・・・なんとなく、目が冴えてしまって」

 眠れませんか、と尋ねられた稜は、首を横に振って答えた。
 菖蒲は微かに頷くような素振りをみせて、視線を稜から庭へと移した。

「では、少しその辺りを歩いてみましょうか」
「 ―― こんな時間に、ですか?」
「この旅館の敷地内であれば、危険なことは何もありませんから、大丈夫ですよ」
 と、菖蒲は言い、庭に降りた。
 そんな菖蒲の背中を微かなデジャヴと共に3秒ほど眺めてから、稜も菖蒲を追って庭に降りる。

 旅館のものとは思えないくらいに、それは広大な庭だった。
 玉砂利が敷かれた細い小径ぞいにはこぢんまりとしたあずまやがあり、川や池まであった。
 そしてその周りはいかにも嵐山、嵯峨野らしい竹林になっている。

 小径には所々、灯の入れられた灯籠が配されていたが、それは灯籠の周りをかろうじてぼんやりと照らし出しているだけで、かえってその頼りなげな光が届く範囲外の闇の濃さを際だたせているようにも思え ―― 稜は心の奥が微かにきしむような、あまり気分がいいとは言い難い感覚を覚えた。

 そういえばその昔、聞いたことがあるな、と稜は思う ―― 通常の生き物というのは、暗闇を恐れないのだ、と。

 人間の赤ん坊も、生まれたばかりの頃は闇を恐れない。
 だが自我の芽生えと同時に、夜泣きが始まる ―― つまり闇を恐れる感覚というのは、複雑な精神世界を内包する、人間独特の進化の集大成なのである。

 しかし ―― と、その理論は続く。

 そう、しかし、必要以上に闇に恐れを感じる場合、それは心に何らかの屈託、または障害のある証拠なのだ、と。

 確かにこうして闇の中にひとり身を置いてみると、何とも心許ないような気分になってくる、と稜は思う。
 こんな感覚を覚えだしたのは、一体いつの頃からであったろう ―― 俊輔と再会する前からこうだっただろうか、それともそれは、あの・・・ ――――

 その時ふいに伸ばされた菖蒲の手が、稜の右手をとった。
 菖蒲の手指は相変わらず、切ないほどの柔らかさを纏っていた。

「こうしていると、思い出しませんか?」
 と、菖蒲が静かに訊いた。
「・・・ ―― 初めて本家でお会いした時のことですか」
 と、稜も静かに答えた。

「そうです、あの時 ―― 私は確かに、志筑さんとは長いお付き合いになるだろうという気がしました。
 まさかこんな風に、一緒に旅行をするまでとは思いませんでしたが」
「・・・そうですね、・・・」

 引き続き静かに答えた稜の指を握る菖蒲の手に、少し力が込められる。

「もう数ヶ月時期が早ければ、蛍が見られたんですけれど・・・残念でしたね」
「蛍ですか?ここで?」
「ええ。京都の有名な蛍の鑑賞スポットはもの凄い人出になってしまうのですが、ここは限られた人しか知らない、いわゆる穴場なんです」
「実際に蛍が飛んでいるところは、一度も見たことがありませんが・・・きっと、綺麗なのでしょうね」
「ええ、それはもう・・・、夢のよう、というのは、きっとああいう光景を言うのだと思うくらい、・・・では来年のその時期にまた、こういう計画を立てましょうか ―― 志筑さんさえ、お嫌でなければ」
「・・・嫌だなんてことはありませんよ、楽しそうだ」
 少し笑って、稜は言った。
「本当に?」
 足を止めて稜を振り返り、菖蒲が訊いた。

 稜は頷く ―― 昨日電話で話した際、俊輔は呆れたという言い方ではあったが“手が空いたら迎えに行ってやる”と言っただけで、すぐに帰ってこい、と強くは言わなかった。

 むろんそこには、菖蒲には何を言っても無駄だ、という投げやりじみた諦めがあるのは、稜も分かっていた。
 しかしほんの少しでも稜の身に危険の及ぶ可能性があるのなら、俊輔は何を置いても稜を東京へ帰らせるはずだった。
 つまり稜の身の安全に関して、俊輔は全面的に菖蒲を信頼しているのだ。

 そう、そして ―― これは俊輔もその周りも、誰も信じないだろうが ―― 稜は自分がどうしてもと言えば、菖蒲がすぐに自分を俊輔の元に返すであろうことも、知っていた。

 そういう意味では稜は菖蒲を俊輔と同様に ―― 少々方向性は違うものの ―― 信頼していた。

「志筑さんが協力して下さるのなら、もっとスムーズなやり方が考えられます ―― 今回みたいに、志筑さんが周りのことを心配しなくてもいいような・・・、ふふふ、楽しみ」
 にっこりと笑ってから、菖蒲は軽い足取りで、再び歩みを進める。

 そんな菖蒲の様子を見聞きした稜はふと、菖蒲はそもそもの初めから、俊輔が好きだったのではないか、と思った。

 これという根拠はない。
 はっきりとした確信がある訳でもない。
 けれど何となく、そんな気がした。

 もしそうだったのなら、自分がいなければ2人は結婚をして、それなりに衝突しつつも、幸せになれたのかもしれない ―― と、稜は想像する。
 しかしそれは今更言っても、考えても、どうにもならないことだった。
 菖蒲を好ましく思ってはいるものの、譲れることと譲れないことはある。
 こうして唐突に思いがけない場所に連れられて時を過ごすことは“譲れる”カテゴリに属することだった。
 だが俊輔のことは稜の中でもう、菖蒲だけでなく他の誰であったとしても決して譲れないカテゴリに属するものになっていた。

「 ―― 私の車を持ってこさせたので、明日は京都をあちこち、ドライブして回りましょう」
 流れた沈黙を破って、菖蒲は楽しそうに言った。
「ええと・・・それはつまり、菖蒲さんが運転なさるということですか?」
 びっくりして、稜は言った。
「ええ、そうです。私、車の運転が好きで ―― 東京でも個人的な用を足す時は、殆ど自分で運転して行きますよ。
 でもそう言えば志筑さんは徒歩でいらっしゃることが多いですね、今回もそうでしたし ―― 俊輔さまはなにも言いませんか?」
「いえ、散々言われていますよ、車で行けるところは全て車で行け、とか・・・でも一昨日の本屋くらいの近場なら、ついつい歩いてしまうんですよね」
「・・それは・・・、普段の俊輔さまの苦労が忍ばれますね」
 と、菖蒲は苦笑した。
「そうですか?でも5分もしないで行ける店ですよ?」
「私が俊輔さまでしたら、志筑さんを部屋から一歩も出しません、余りにも無防備すぎますもの」
「 ―― そうでしょうか」
「明らかにそうでしょう、でなければ私とここにこうしている説明がつかないではありませんか」
「・・・相手が菖蒲さんだったのに、無防備すぎるとかいう話になってしまうんですか?どうも腑に落ちないな」
 と、稜は首を捻る。
「ほら、そういうところなんですよ」
 と、菖蒲はからかうように言って、笑った。