「あらあら、まぁまぁ、大変!」
強引に連れて行かれた志筑稜の家の玄関で、志筑の母親は雨に濡れた俺たちを見て、言った。
「ちょっと、おばあちゃん、タオル、タオル持ってきて、お友達の分もー!」
「稜が帰ったのか?」
「おかえりなさい、あなたは初めましてよね、いらっしゃい。大変だったわねぇ、ほら、タオル」
「見事に降られたわねぇ、予報じゃ降るなんて言ってなかったんだけど」
「ほらほら、早く拭いて」
「そんなちまちまタオルなんかで拭いているより、風呂に入った方が早いだろ、風呂だ風呂」
「それもそうね、お風呂は?沸いてるの?」
「さっき祥子が沸かしてたわ、じゃああなた、早速入ってきなさい・・・」・・・、・・・ ――――
志筑が帰ったと知った途端、どっと玄関に集まってきた志筑の家族が口々に言う。
何人もの人間の話をいっぺんに聞いて、理解することが出来たという聖徳太子ですら、この場の嵐のような言葉の渦を見たら泡を食って逃げ出すのではないかというような、それはそんな状態だった。
志筑はもちろん慣れているのだろう、言われたことに淡々と対応していたが、俺はひたすら呆然とするばかりだった。
これまでの人生、ずっと母と2人きりのひっそりとした生活で、こんな風に他人の声が一気に自分に集中して注がれる状況に置かれたことはなかったのだ。
そうして呆然とする俺を助けてくれたのは、2階から足取りも軽く降りてきた若い女性だった。
「ちょっと、そんなみんなでいっぺんに話しかけないの、彼、びっくりしちゃってるじゃない ―― いらっしゃい、ええと・・・?」
と、彼女は言って、右側に少し首を傾けて俺を見た。
志筑稜の姉なのだろう、顔は似ていなかったが、顔のパーツの几帳面な整い方と、仕草がそっくりだった。
「辻村です」
ぺこりと頭を下げて俺は言い、その回答を聞いた彼女は、更に首を傾ける。
「辻村?」
「・・・俊輔」
「俊輔くん」
と言って、彼女は整った顔をくしゃっと崩すようにして、笑った。
「どうぞ、上がって。お風呂沸いているから、温まって来るといいわよ」
「いえそんな、結構です。傘を借りに寄らせていただいただけですし、・・・」
と、遠慮しかけた俺に、横合いから志筑の母親が、
「ダメよ、そんな濡れたまま帰ったら風邪引いちゃうわ」
と、言った。
そうそう、という風に、その後ろにいた志筑の祖母たちが頷く。
「・・・、いや、でも・・・」
「いいから、入って来いよ」
それまで黙って俺の横に立っていた志筑が、靴を脱ぎながら言った。
「そのままじゃ本当に風邪をひきそうだ」
一瞬、この期に及んでまだ嫌味を言うのか、こいつは。と俺は身構えて志筑を見たが ―― 志筑の横顔に、嫌味の色は一切なかった。
殆ど引きずられるような勢いで風呂場に誘導され、入った風呂から出てリビングに顔を出すと、そこに勢揃いしていた家族に、今度は夕食を食べて行くようにと勧められた。
そこでも志筑の姉が、“おうちでもう用意していたら、悪いんじゃない?”と口を挟んでくれた。
が、玄関でのあの怒濤のような言葉の嵐に再び晒されたせいだろうか、俺はいつものように適当な嘘を言うことが出来ず、
自分の家庭が母子家庭であること、
母は仕事でいつも帰りが11時過ぎになること、
そのため食事は殆ど毎日、自分が作っていること、
などを話してしまう。
後で、“何故俺は訊かれもしない自分の境遇を、あそこまでべらべら話したのだろう?”と激しく首をひねることになるのだが ―― そこには話すとほぼ必ず眉を顰められる、母子家庭である事実や、夜の仕事をしている母親のことに対し、あの志筑稜の家族がどういう反応を示すものか見てやろう。という気持ちもあった。
いままでのように俺の境遇を知った志筑やその家族が俺を敬遠するのであれば、渡りに船だ、とも思った。
だがその俺の告白を聞いた志筑の家族の反応は、俺がこれまでに経験してきたどんな反応とも、まるで違っていた。
「・・・そうなの・・・。
じゃあつまり俊輔くんがここで食べて行ったら、お仕事から帰ってきたお母さんが夜、困るのね」
いかにも深刻そうに、志筑の母親が言った。
「そうねぇ、帰ってから作るんじゃ、俊輔くんだって面倒よねぇ・・・」
何かを揚げているのだろう、油のはぜる音と共に、一人の祖母が言った。
「お母さんの分を取り分けておいて、持って帰ってもらえばいいじゃない」
当然のように、もう一人の祖母が言った。
そこで、そうねそうね、それがいいわ。そうそう。とひとしきり3人は満足げに頷き合い、俺に向かって、忘れずに持って帰ってね!とにこやかに言った。
その後志筑の祖父の将棋の相手をさせられたり、俺が風呂に入っている間に帰ってきていた志筑の父親に謝られたり(稜の手伝いをして雨に降られたんだって?悪かったな、あいつはやりだすと止まれないところがあるんだ、云々。(・・・確かに・・・))して夕食になる頃には、俺は微妙にぐったりとしていた。
繰り返しになるが、こんな風に複数の人が自分に向かって話しかけてくる状態は、経験がなかったのだ。
だから席に着くとき、俺は将棋をしていたのとは別の、もう一人の祖父の隣に座った。
彼が最初に玄関にも出てこず、先ほどからリビングにはいたが一人物静かに分厚い歴史書のページを繰っていたのを、俺は見ていた。
彼の隣なら、少なくとも一方向とは矢継ぎ早に話をしなくてもいいのではないかと思ったのだ。
そこへ俺と入れ替わりに風呂に入っていた志筑がやってきて、
「・・・辻村お前、しょっぱなからチャレンジャーだな」
と苦笑し、俺の隣に座った。
意味が分からず、俺はその志筑の言葉の意味を問おうとした。
が、そこで生じた新たな衝撃に、俺は質問をしそびれてしまう。
どっと持ってこられた食事の量と数が、半端ないのだ。
一人の祖母の揚げていた唐揚げの量は、どこかの鶏舎を丸ごと買い占めて、そこにいた鶏全てを片っ端から揚げまくったとしか思えなかった。
唐揚げと一緒に揚げられたさつまいもの量も、付け合わせのキャベツの千切りも、キュウリとトマトのサラダも、専用の畑の収穫を根こそぎ使ったのかというような量だった。
他にも煮しめやら、わかめの酢の物やら、冷や奴やら、きんぴらごぼうやら、ぬか漬けやらなにやら、もの凄い。
だが極めつけだったのは、ゆで卵だ。
一体全体、何ダース茹でているのか、そもそも何故卵をこんなにいっぺんに茹でる必要があるのか ―― 結局俺はその後の人生でも、こんなに大量のゆで卵が積み重なった光景を一度も見たことはない。
しかもそれを見て家族の誰一人として驚いていないのもまた、驚く。
つまり彼らにとってこの衝撃的な食事風景はあくまでも日常的なものであり、驚くべきことではないのだ。
この家に来てから何度目になるのかは分からないが、呆然と言葉を失う俺の前に、これまた巨大なお櫃が運ばれてくる。
そして各自にご飯と味噌汁が回され、俺の精神を取り残したまま食事になるのだが ―― そこで俺は、先ほどの謎めいた志筑の言葉の意味を、身を持って知ることになるのだった・・・。