TRURH ABOUT LOVE   - 8 -

「・・・え? ―― ごめんなさい、よく聞こえませんでした」
 ふっと表情を和らげ、菖蒲さんが訊く。
「・・・いえ ―― 俺はまだまだ、自覚が足りないんだなと思いまして」
 俺は答え、微笑んでみせる。
「今日はどこかへお出掛けだったんですか?素敵な着物ですね、とてもよく似合っている」
「まぁ、ほんとう?志筑さんに誉めていただくのがいちばん嬉しいわ、ありがとうございます。
 今日はお花の発表会があったんです。私も出品していたものですから、朝から会場につめていたんです」
「そうだったんですか」
 と、頷きながら俺は、きっとあの2人はずいぶん辛抱強く機会を待ったんだろうな、と思った。

 常に俺の側にいる相良さんがおらず、本家には菖蒲さんがいないという状況は、そう多くはないはずだ。
 意図的に状況を作り出そうとして誰かに警戒されては元も子もないだろうし ―― 彼らはきっと長いこと、今日のような日が来るのを待っていたのだろう。

「ところで志筑さんはどうしてここに?俊輔さまも伊織もいないようですけれど・・・まさかおひとりでいらした訳ではありませんよね?」
「ええ。御堂さんに連れてきていただきました」
 と、俺は答えた。
「・・・御堂に・・・?」
 と、菖蒲さんは眉を顰める。
 そして少しの間、何事かを考え込んでから菖蒲さんが再び口を開く前に、俺は言う、「菖蒲さん。近いうちに・・・と、言っても今日から2、3日は日をあけていただきたいのですが、その頃に品川へいらしていただけますか?折り入ってご相談したいことがありますので」
「・・・それは、構いませんけれど・・・。どんな相談ですか?」
「・・・察していらっしゃるのではありませんか」
 と、俺は菖蒲さんを見下ろして言った。
 流石に菖蒲さんは目を逸らすことはなかったが、その双眸に微かな動揺の影が揺れたのははっきりと分かった。

 ああ、やっぱり。と俺は思う ―― ずっと以前から、こういう話は散々出てきていたのだ。
 俊輔も、菖蒲さんも・・・三枝さんも永山さんも、船井さんも、きっと他の誰もが、俺にだけは知られないように、注意を払ってきたのだろう。
 いや、その手の話が出ていないのかと疑うことさえしたことのない俺が、甘かっただけだ。

「・・・志筑さん、はっきり申し上げておきますが、私としては・・・」
 と、菖蒲さんがゆっくりと話し始めようとするのを、
「いえ、待ってください」
 と、素早く言って俺は止めた。
「色々・・・きちんと考えて、心を決めてから、冷静に話をしたいと思います。すみませんが、俺に少し時間を下さい」

 菖蒲さんは気遣わしげな表情をしたままだったが、分かりました。と頷いた。
 そしてその日はそれ以上なにも言わず、俺を品川まで送ってくれた。
 俺が品川に着いて1時間もしないうちに、相良さんが帰ってくる。
 タイミングとしてはギリギリ、というところだ。

「私が不在の間、何かありましたか?」
 と、相良さんは俺の顔を見てすぐに訊いた。
「いいえ。特に何も」
 と、俺は答えた。

 2、3日後に、という俺の願いをきっちりと守った菖蒲さんが品川にやって来たのは、あの日から4日後の昼前だった。
 隣の部屋にいて、物音一つで飛んでくる相良さんが気づかないほど、それはひっそりとした来訪だった。

「元会長と杉浦組長が志筑さんにしたというお話は、全て聞きました」
 と、リビングのソファに座ったのとほぼ同時に、菖蒲さんが言った。
「それでは話が早いですね」
 と、俺はお茶を菖蒲さんに出してから、テーブルを挟んで彼女の向かいに腰をおろす。
「とりあえず志筑さんのお考えを聞かせていただけますか」、揺るぎなく俺を見つめながら、菖蒲さんは言う、「今回のこと、どう考えて・・・どうしようと思っていらっしゃいますか」
「俺に選択肢なんか、与えられているんでしょうか」、と俺は静かに言った。そして笑う、「懐かしいですね。これと同じような会話を、以前も菖蒲さんとしましたね」

 菖蒲さんは黙ったまま、何も言わない。
 俺は一度息を大きく吸って、吐いてから、続ける。

「あのとき菖蒲さんは、“俊輔の元に残れば俺も俊輔も辛い思いをすることになる。互いを互いに傷つけあうような、そういう負の歯車に組み込まれる覚悟がないのなら身を引くべきだ”と言った。あのときの俺には少なくとも、身を引くか引かないかという選択肢があった。しかし今の俺には、その選択肢すらないように思えます」
「あのお話をしたときと今とでは、事情が全く違うじゃありませんか」
 と、菖蒲さんは言った。
「そうでしょうか?俺には、そうは思えません」
 と、俺は言った。
「何故です ―― もう察していらっしゃると思うので言いますが、こういった話は今までにも、何度もありました。話だけじゃありません、実力行使というのに近い状況だってあったんです」
「実力行使?」
「ええ。地方に行かれた俊輔さまの宿泊する部屋に女性が用意されていたり、夜中に寝室に忍んできたりしたこともあったと聞いています」
「それはまた・・・凄い話ですね」
 と、俺はどことなく感心するような気分になって言った。
 組織の長の元に貢ぎ物として女性を差し向けるとは、趣が完全に戦国時代や江戸時代初期のそれである。
 そんな俺の曖昧な態度に焦れたのだろう、菖蒲さんは立ち上がってテーブルを回り、俺の隣に腰を下ろした。
 そして強い力で俺の右の手首を掴む。
「そういうことが悉くうまく行かず、そしてそれが志筑さんに伝わらなかったのはどうしてだと思いますか?あなたの周りにいる誰もがみんな、あなたが唯一であり無二の存在であると理解しているからじゃありませんか。みんなあなたを必死で守って、大事にしていて、あなたが望めば骨身を惜しむ者などいないのに ―― それなのにどうして、戦う前から志筑さんが諦めてしまうの?」
「・・・戦いか・・・。そう・・・、そうですね。きっとあなたの言うとおりなんでしょう。でもね、菖蒲さん。そこにはひとつ、もの凄く大きな問題があるんです」
 と、俺は言い、俺の手首を掴む菖蒲さんの細い手指を見下ろす。
「俺の中にはもう、戦うだけの気力が残っていない ―― きっと何よりも一番、それが問題なんです」