TRURH ABOUT LOVE - Epilogue1 -
後ろ髪をひかれるというのは正に、こういう時に生まれた言葉なのだろう。
話はちゃんと断ってくるからと何度説明しても、血の気の失せた顔をした稜は掴んだ俺の腕をなかなか離そうとしなかった。
なんとか説得して俺から手を離したのと同時に虚脱したようになった稜を見て、感じる心配と不安は更にその濃度を増した。
当然ながらこんならしくない稜を後に残して出掛けたくはなかったが、しかし、どうしようもない。
今回の結婚話(稜が現状に慣れたらきちんと籍を入れて結婚するようにしろ。と裏では散々言われていたのだ、実は)の相手はこの世界でしっかりとした後ろ盾のある女だったし、そんな相手との話を当日になって“やっぱりやめた”と電話一本で済ませることは絶対に出来なかった。
出来る限り早く帰ってくるから、と伊織に稜を任せて向かった駿河会本部、集めた幹部たちの前で俺は“今回の話はなかったことにする”と宣言した。
流石に反対意見が噴出するだろうと覚悟していた俺だったが、予測に反して幹部たちから反対めいた意見は一切出なかった。
三枝などはこうなることは予め予測していたとばかりに、てきぱきと関係各所に報告を入れていた。
その後起こった嵐のような忙しさのなかでも率先して矢面に立ち、問題を調整・解決すべく働いてくれた。
三枝が“どうしても会長が対応しなくてはならない件”をぎりぎりまでふるいにかけてくれなければ、少なくとも3日くらいは不眠不休で働き続けなければならなかったのではないかと思う。
そんな怒濤の夜を経てその日中に(日付変更線ぎりぎりではあったが)マンションのエントランスにたどり着いた時、俺は心底三枝に感謝した。
嫌み臭くて腹立たしい言動の多い男ではあるが、有能さという点では彼の右に出るものはそうそういない。
彼が自分の部下であることは、俺に与えられた僥倖のひとつと言っても過言ではないだろう ―― 当分は三枝に何を言われようと嫌な顔をせず、大人しく言うことを聞くことにしよう。
そう固く心に誓いつつ、帰ったマンションの部屋 ―― 稜の姿は何故か、そこにはなかった。
*
「稜はどこだ!?」
ドアが開いたのと同時に、俺は怒鳴るように訊いた。
開いたドアの隙間から顔を見せた伊織は表情を変えることなく、
「お出掛けになりました」
と、言った。
「・・・出掛けたって・・・、こんな時間に、どこへ?」
と、俺は訊いた。
「存じません」
と、伊織は答えた。
「・・・何を言っているんだお前は?知らないで済む問題じゃないだろうが」
「そうですね。確かに知りません、で済む問題ではない。もちろんそれは、重々承知しています」
「・・・、だったら・・・!」
「しかし私は志筑さんが今どこにいるのか、本当に知らないのです。ただ会長宛てに伝言をお預かりしました」
「・・・伝言?」
と、俺は何の芸もなくおうむ返しに伊織の返答を繰り返す。
伊織はにこりともせずに頷く。
「“しばらく一人になって、今回起こったことについてきちんと考えたい。そうする必要があると思うし、そうしなければ後々看過出来ない弊害が出てくるに違いないという確信がある”と。“心配するなというのは無理だろうが、無茶なことはしないので心配し過ぎないで欲しい”ともおっしゃっていました」
「・・・なんだそれは。さっぱり意味が分からない ―― それで稜は誰と、どこに行ったんだ」
茫然として、俺は言った ―― 弊害?
そんな俺を見て、伊織は微かにため息をつく。
「確かに私は志筑さんが出掛けられるのをお見送りはしました、それは認めます。けれど行き先や居場所に関して志筑さんは私には何も言いませんでしたし、私も訊きませんでした」
「どうして?」、と俺は思わず責めるように言った。
「どうして」、と伊織は繰り返し、俺の目を真っ直ぐに見据えながら続ける、「志筑さんが家を出れば会長がこうして私のところにやってくるのは火を見るより明らかでしょう ―― だから言わなかったし、訊かなかったのです。ですから今回は“志筑さんの傍にいさせない”と言われても、私は黙って与えて頂いたこの部屋から出てゆくしかありません」
ただ真っ直ぐに見詰めているだけなのに、彼が烈火の如く怒っていることがひしひしと伝わってくる ―― 伊織が俺を見る目つきは、そんな目つきだった。
稜を無理矢理抱いたあの日以降、これまでずっと、伊織の俺に対する態度は一切変わらなかった。
しかし俺はかなり早い段階から伊織が激しく怒っていることを ―― 静かではあるが、これまでにないほど高いレヴェルで怒り狂っていることを ―― 知っていた。その怒りはあれから1か月以上時間が経過した今なお、少しも軽減していないのだ。
そうかと言って伊織に向かって謝るのも話が違うだけにどうすれば良いのか見当もつかず、俺は居たたまれずにぐしゃりと前髪をかきあげる。
気まずい沈黙が流れ、それでも伊織は1ミクロンも表情を変えることなく、
「これを良い機会として、よくお考えになってはいかがです。呑気に“意味が分からない”などと言っていないで、分かるように努力すればいい。そろそろそうすべきなのではないですか」
と、冷たく言い放ち、それでは失礼します。と言葉つきは丁寧だが雰囲気がそっけない挨拶と共にドアを閉めた。
閉じたドアからは伊織の拒絶の意志が伝わってきて、とても重ねて質問する気には(稜の様子はどうだったか、誰と出ていったのか、等々)なれない。
ぴたりと閉ざされたドアを前に為す術もなく、俺は深いため息をつく。
ため息などついてもどうにもならないことは、分かっていたけれど。