TRURH ABOUT LOVE - セカンド・ラブ 2 -
「やめないか、お前たち」
男のその声の、最初の一音を聞いた瞬間、犬達は一斉に殺気を消し、軍隊さながらの動きで声をかけた男の方へと顔を向けた。
木立から出てきた男は自分を見つめる犬達を一瞥してから、ざくざくと枯れ葉の絨毯を踏みしめて俺の方へと近づいてくる。
そして警戒を解けずにいる俺の顔を、たっぷり1分以上眺めてから、
「・・・なるほど。我慢の効かない顔をしていやがる。父親にそっくりだな」
と、言ってにやりと笑う。
その男の顔に、俺は全く見覚えがなかった。
だが見覚えはなくとも、目の前にいる男が堅気ではないことだけは分かった ―― いくつかの指先が欠けた両手や、男の頑丈そうな太い首の、頸動脈ぎりぎりの位置に残る刀痕や、その首筋や手首からちらりと覗く墨の気配や、右目尻を潰すように残る引き攣れた縫合痕や、短く刈り込まれた白髪交じりの頭を走る白い傷痕が弥が上にも男の壮絶な過去を物語っていた。
いや、それらが全くなかったとしても、男の纏う雰囲気は到底まっとうな生き方をしてきた男のものではなかった。
「・・・名前は?」
と、俺は訊いた。
「君の名は、か ―― 俺の名は船井吾朗(ふないごろう)。名前くらいは、聞いたことがあるんじゃねぇか」
と、男は言って、右側の頬だけを引き上げるようにして、笑った。
*
船井吾朗 ―― その名を聞いたことは確かにあった。聞いたことがあるだけ、ではあるが。
駿河会創設前後の荒々しい時代から護衛として駿河会初代会長・駿河俊太郎のそばに付き添って文字通り幾度も身を呈してその身を護り、また駿河会の特攻隊長として武闘派を率い、他組織との抗争ではいつも先陣をきって斬りこんで行ったという半ば伝説に近い男の名だ。
現在俺の元にいる船井勇冶は彼の甥であり、永山豪を見出して育てたのもまた、彼であると聞いている。
永山も様々な武勇伝を持つ男だが、船井吾朗の武勇伝の数は永山の比ではなく、しかもその内容がどれもこれも「マジかよ・・・」と反射的に顔が歪んでしまうようなものが多かった。
時代の流れと共に駿河会から武闘色が削がれてゆくのに合わせて表舞台から退き、駿河俊太郎が亡くなるのと同時に引退した ―― その時引き留める周囲に向かって、“自分が命を懸けて仕えられるのは初代だけだ”ときっぱり言い切ったと聞いている。
まさかその男が、ここで出てくるとは・・・ ――――
どういう反応をすればいいのか分からず、立ち尽くす俺に男は顎をしゃくってみせる。
「ついてきな。車は向こうだ」
「・・・向こう?」
「犬たちの動きがおかしかったから、車を捨てて近道を来たんだ。よかったな、そうでなければ恋人に会う前に血祭りだったろうよ」
と、言いながら船井が案内した先には、車高をこれでもかというくらい高くした四輪駆動車が停まっていた。
乗れ。と言われて俺は、殆どよじ登るようにして車の助手席に乗り込む。
動き出した車を見送る犬たちを眺めながら俺は訊く、「あの犬たちは?」
「時間になれば犬舎に帰るように躾けてある。ここで土佐犬の調教をしているんでね」
「・・・調教?」
「ああ、時には乞われて繁殖もするが・・・引き取り手は殆ど極道関係者だな。
だがまぁ何れにせよあの犬には主に絶対服従するよう、きちんとした躾が必須なんだ。そうでなければ動く凶器になりかねないからな ―― さっき、身を持って体験しただろう」
と、船井は声を上げて笑った。
「あれで懲りたら、ここにいる間は二度と不用意な単独行動はしないことだ。いつもいつも、俺が助けに出て行けるわけじゃないからな」
もちろん俺とて、“中に入ったりしないでここで待っていて下さいね”などというやんわりした言い方ではなく、“この柵の向こうは、闘犬として名高い土佐犬が大量に放し飼いにされているから、入ると危険だ”と聞いていれば勝手に入ったりはしなかった。
菖蒲という女が何を考えて生きているのか、理解出来る日など永遠に来ないだろうとつくづく実感するのはこういう時だ。
俺が死んだらどうするのだ ―― と、そこでふいに、稜のことが心配になった。
いかにも一匹狼風な船井がここにいる間、稜に何かあったらどうするのだろう、と思ったのだ。
「・・・今、稜には誰かついているのか?」
と俺が訊くと、船井はちらりと横目で俺を見てから首を横に振る。
「彼は一人でいるが、心配する必要はない。彼は俺自身が奥に連れて入ったんだからな」
「・・・関係あるのか、それ?」
「当然だ。犬という動物は一度見たものは一生きちんと覚えているし、理解している。賢い動物なんだ。猫なんかとは違う」
「・・・、・・・なるほど」
と、俺は一応頷いて車窓から外へと視線を転じる。
いくら目を凝らしてみても流れゆく景色の中に犬の姿は見えなかったが、きっと犬はこの土地のあちこちに散らばっていて、不審者の気配を感じるや否や臨戦態勢に入り、侵入者を排除するべく行動するのだろう。
つまりこの土地の周りにある3重の壁は闘犬である土佐犬たちが外に出ないようにする為のものであり、土地の中央部にあるのであろう居住部を護るのは犬なのだ。
こうでもしないと安心できないほどの過去が船井にはあったのだろうし、人一人を密かに匿いつつ完璧に護るのにこんな都合のいい場所はそうないだろう。
道理で駿河会の幹部や舎弟が動く気配がなかった訳である(そして船井が(甥の方だ)申し訳なさそうに俺を見送りに出てくる訳である)・・・。
等々と考えているうちに、車は金網製の高い柵に囲まれた丸太つくりの立派なリッジ風の建物の前で停まる。
「彼は1階の居間か、2階の一番奥の部屋にいるはずだ」
車のロックを外しながら、船井は言った。
「念のために言っておくが、犬に襲われたくなければこのロッジを囲う柵から外へは出るな」
頼まれても出ないよ。と思いながら俺は頷いて車から降り、ロッジへと足を向けた。
が、3歩も行かないうちに船井から声をかけられ、振り返る。
船井は悪い顔でにやにやと笑っており、
「言い忘れたが俺はもうこの年だからな、そう耳はよくない。どんな音を立てようと気付かんから、気を遣わんでいいぞ」
などと言った。
思わず顔をしかめてしまいそうになるのを堪えて俺はきびすを返し、ロッジの入り口へ向かう階段を昇る。
後ろで船井が大声で笑っているのももちろん、聞こえなかったことにした。