Two Moon Junction

第1話

「畜生・・・、くそ忌々しい・・・」

 新宿歌舞伎町の中央部分を縦に割るように走る、新宿区役所通り、深夜1時すぎ。

 この時間になっても途切れない人いきれを停まった車の窓の外に見ながら、佐伯龍二郎(さえきりゅうじろう)は鋭く舌打ちをした。

 運転席に座る安藤晃(あんどうあきら)はバック・ミラー越しに龍二郎へ視線をやったが、何も言わない。
 その隣に座る三木谷翔(みきたにかける)も、同様に口を閉ざしていた。

 兄貴分である龍二郎が何に対して怒っているのか、2人はほぼ正確に把握していた。
 だが余計な口を利けば龍二郎の逆鱗に触れるのを知っていたので、黙っているしかなかったのだ。

 関東一円でその勢力を拡大しつつある広域指定暴力団、九竜会(くりゅうかい)。
 その一次団体である芳賀組(はがぐみ) ―― 龍二郎は組織内に3人いる若頭の内の1人であった。
 36歳という若さでその地位につくのは、とても珍しいことだ。

 実際、龍二郎を若頭に、という話が出た際、組織内からは多数の反対の声が上がった。それに関するごたごたも、相当あった。
 だが様々な組織が凌ぎを削り、都内では一番管理が難しいとされる新宿区役所通り沿いで確固たる勢力を保持・拡大し、厄介な中国マフィアにすら一目置かれる龍二郎をきちんとした地位につけ、更なる活躍をしてもらいたいという芳賀組組長・芳賀和彦(はがかずひこ)たっての声が、雑音を押さえた。

 とはいえ年功序列の極道社会、しかも芳賀組では新参者の部類である龍二郎の立場は、若頭とはいえそう強くはなかった。
 現に今日も ―― 正確に言うと昨日だが ―― 古株の若頭である五木幸太(いつきこうた)がもう一人の若頭である及川健司(おいかわけんじ)の手柄を横取りしているのを知っていながら、何も言えなかった。

 むろん及川も目上の五木に何も言えずにいる訳で、そこに2人よりも10近く年の若い龍二郎が、横から口を挟むことなど出来はしない。
 上昇志向の高い五木に比べ、元々温厚な性格の及川であったから、龍二郎が何を言おうと黙っていただろうとも思う。

 そんな及川に対しても、微かな苛立ちを禁じ得ない龍二郎だった。
 だがそれよりも龍二郎が腹立たしく思うのは、五木の狡猾さを見抜けずに彼を手放しで賞賛する筆頭若頭・権堂始(ごんどうはじめ)なのだ。

 上に立つ者はものごとをその細部まで満遍なく見て、見えない部分すら見抜く眼力を磨くべきだというのが、龍二郎の昔からの持論であった。
 表面上の体裁だけを見てその裏の裏まで見抜けない、見抜く努力すらしない者など人の上に立つ資格はない、と。

「・・・畜生・・・」
 再び龍二郎が唸るように呟き、呟きざま、後部座席のドア・ロックを外した。
「・・・どちらへ?」
 と、安藤が訊いた。
「見回りだ。さっき途中で呼び出されたからな」
 と、龍二郎は答え、それならば、と一緒に外に出ようとした三木谷を止めた。
「俺だけでいい。お前たちはもう帰れ」

 龍二郎にそう言われた安藤と三木谷は、黙って頷く。
 一人になりたいのだろう、という事は言わずとも察せられたし、この近辺ではそうそう危険もないだろうと判断しての事だった。

「・・・今日は明美さんのところ、かな」
 車の中から龍二郎の後ろ姿を見送って、安藤が言った。
「そうだな、一番近いし・・・しかし兄貴、抜けちまわないといいが」
 少し不安そうに、三木谷が呟く。

 2人は龍二郎に、他の任侠団体や中国マフィア組織から強い引き抜きの声がかけられているのを知っていた。
 あちこちの団体を渡り歩いてきた龍二郎が新天地を求めて組織を抜けてしまう可能性は、大いにあった。

 だがそれは、2人がいくら考えて心配してみても、始まらない問題でもある。
 安藤と三木谷は龍二郎の背中が見えなくなるまでそこで見送ってから、車を置くために組事務所へと向かった。

 車を降りた龍二郎は、行く手に見知った顔が認められる度にさりげなく進路を変え、区役所通りを大久保方面へ向かった。
 油断なくあたりに意識をやりながら、スーツの懐から携帯電話を取り出す。
 そして開いた携帯電話のアドレスを呼び出したが ―― どうにも発信ボタンを押す気になれない。

 最初は安藤と三木谷が予測した通り、近くにマンションを与えている明美という名の女の所に行くつもりだった。
 だがよくよく考えてみると、今は誰とも話をしたくない。
 従順な明美は余計な口を利くなと龍二郎が言えばその通りにするだろうが、問題は龍二郎が今は他人と口を利くどころか女を抱く気にもなれないという点にあった。

 力なくため息をつき、折り畳んだ携帯電話を懐に戻したところで、龍二郎はふと足を止める。
 雑居ビルと雑居ビルの間に、うずくまったまま動かない人影があったのだ。

 それは若い男のようだった。
 明るく染められた長めの髪に、つやつやとした光沢のある生地で作られたスーツ、着崩された黒いワイシャツ、手首に光る金色のブレスレット ―― ホスト以外の何者でもない、という風の青年。

 その光景自体は、そう珍しくはない。
 飲み過ぎて道路に倒れ込んでいるホストなど、歌舞伎町界隈では掃いて捨てるほどいる。

 だが龍二郎は3時間前にもその男を、同じ場所で見ていた。例の忌々しい用事で呼び出される直前もここを通ったのだ。
 そしてうずくまる男の組んだ両腕に伏せられた顔色は、3時間前よりも更に悪くなっていた。
 それはアルコールの過剰摂取によるものなどではない、明らかに異常な青白さであった。

 他組織の管轄内で見たのなら、そう感じても放っておいただろう。
 だがその場所は芳賀組のシマ内であり、加えて自分がつい最近、他の組から管轄を移させた場所であった。
 今大きな揉め事があれば厄介なことになる ―― 龍二郎は再度深いため息をつき、うずくまる男の元に歩いて行く。

「おい、どうした」
 龍二郎は言い、男の肩に手を置いた。

 間近に見ると男は予想よりも年若そうだった。おそらく二十歳かそこらであろう。
 そしてその顔色は、白を通り越して水色の絵の具を溶かして塗りたくったようだった。

 龍二郎の声を聞いた青年の身体が小さく痙攣するように動いたが、それだけだった。彼は顔すら上げない。
 しかし龍二郎は青年が身動きした瞬間、辺りに薄く血の匂いが漂ったのを見過ごさなかった。

 注意深く青年の身体を起こしてみると、その腹部が血に染まっている。
 そう大量の出血ではないようだったが、このまま放っておけば生死に関わるのは間違いない。

 龍二郎は舌打ちをし、先程帰らせた車を再度呼び戻すべく、懐から携帯電話を取り出した。