Two Moon Junction

第2話

「あれは恐らく、女性にやられたんだろう。血が出ている割に、傷口はそう深くなかった」

 新宿の外れにある龍二郎の自宅マンションに呼ばれてやって来た医師の新橋隆彦(しんばしたかひこ)は、青年の治療を終えた後で、龍二郎に向かって言った。

「しかしギリギリ縫わなくてもいい程度の傷ではあるから、当分の間、激しい運動や飲酒は禁止だ。おとなしく寝かせておくか、座って本を読むとかさせておくように。
 明日、また消毒をしに来てやるよ」
「・・・分かった」、と龍二郎は頷く、「いつも遅くに呼び出して済まないな、でも助かった。礼を言う」
「龍二郎をこれと認めてやっていることだから、礼なんかいらない」、と新橋は言う、「でもどうしても感謝の気持ちを目に見える形で表したいと言うなら、いつもみたいに美味しい酒を譲ってくれればいい」

 いつも通りの新橋の返答を聞き、龍二郎は小さく笑う。

 新橋は裏社会に生きる人間を専門に看ているモグリの医師ではなく、西武新宿駅側にある大病院の医師だ。

 昔、ひょんな成り行きから新橋の親しい知人を龍二郎が助けたことがあり、以来、普通の病院に行けない患者の治療をしてくれるようになった。
 新橋は龍二郎を通しての治療にしか携わっていないし、彼の存在を龍二郎は芳賀組の誰にも言っていない。
 急な呼び出しにも応じてくれるのを有難いと思う反面、ばれるとまずいのではないか、と龍二郎が心配したこともあった。
 だが新橋は“金銭のやりとりがないのだから、この行為はボランティアだ。誰にとやかく言われる筋合いはない”ときっぱりと言い、それに甘え続けてしまっている状態なのだった。

「・・・前に好きだと言っていた、16年のLAGAVULINが手に入った。持って行けよ」
 龍二郎は言い、顎でリビングのカウンターに置かれた細長い紙袋を指す。
「覚えていてくれたのか、嬉しいねぇ」
 にやりと新橋は笑い、両手をこすりあわせるようにしながら紙袋を手にする。
 そしてそのまま軽く手を上げて帰って行く新橋を見送ってから、龍二郎は青年がいる部屋へと足を向けた。

 部屋に入ると青年は目を覚ましており、龍二郎に軽く頭を下げた。

「すみません、ご迷惑をお掛けして ―― 佐伯さん」、と青年は言った。
 さらりと名前を呼ばれた龍二郎が、小さく眉根を寄せる。
「 ―― どうして俺の名を?」
「何度か店にいらしていたのを見たことがあります。その時にオーナーが佐伯さんの名前を呼ばれていて、それを聞いていました」
「店の名は?」
「“ファラオ”です」
「・・・ああ、あそこか」
 余りに素直に店の名を答えるのに内心苦笑しながら、龍二郎は言った。

“ファラオ”は大きな店ではないが、新宿歌舞伎町では老舗のホストクラブで、龍二郎の担当する区域内の店だ。
 確かに龍二郎は何度か、店に直接顔を出したことがあった。

 つまりそうなるとこの青年は、龍二郎が極道であると知っていることになる。
 それなのにまるで怯えた様子が見えないのは面白いな、と龍二郎は思った ―― いかにも、という風貌ではないものの、歌舞伎町界隈を歩いていると通行人がさりげなく避けて歩いてゆく程度には強面の龍二郎なのだ。

「・・・まぁ、それはいいとして」、と龍二郎は言い、ベッド脇の椅子に腰を下ろす、「お前、名前は」
「葛原怜(くずはられい)です」
「年は?」
「21歳です」
「ふぅん・・・、で、誰にやられた?」
「え?」
「え、じゃねぇだろう。腹の傷だよ」
「・・・・・・。」
「黙ってちゃ分かんねぇよ。誰に刺された?」
「・・・お店の・・・、・・・」、と、そこで怜は言い淀む。
「客に、か」
 ずばりと龍二郎は言い、唇を噛んで俯く怜を見て鼻で笑う。
「こういうことになるから、ホストは客と寝るな、って言うんだよ」
「・・・っ、そんなこと、してません」
 弾かれたように顔を上げ、怜が言う。
「嘘をつけ、いくらなんでも寝てもいねぇ男 ―― しかもホストを刺すまでしねぇだろう。
 これに懲りたら、売り上げ欲しさに客に必要以上の期待をさせないように気をつけるんだな」

 決めつけられた怜は軽く口を尖らせるようにしていたが、それ以上何も言わなかった。
 それを見て、龍二郎は立ち上がる。

「傷が良くなるまではここにいてもいいが、家に帰りたいのなら送ってやる。どうしたい?」
「・・・家は・・・、ないので」
「ない? ―― と龍二郎は顔を顰めた ―― なんだ、そりゃあ。じゃあ、いつもどうしてんだよ?まさかそれで客のところに転がり込んでんのか、寝るのと引き換えに?」
「違います。本当に俺は、そんなことはしてないんです。
 普段は友達のところに泊めてもらったり、あとは適当に・・・、カプセルホテルに泊まったりしているので」

 怜の回答を聞いた龍二郎は、本当かよ。と思ったが、これ以上突っ込んで聞くには時間が時間だった。
 なんだかんだとやっている内に、もう夜が明けてくる時間になっている。
 出掛けなければならない時刻まで、もういくらも時間がないが、龍二郎も少しは眠りたかった。
 それでなくとも今日は嫌なことがあって、疲れているのだ。

 続きはまた今度だ。と思った龍二郎は、とにかく今日はここで休め。と言って部屋を出ようとした。

「 ―― あの、佐伯さん」

 踵を返した龍二郎の背中に向かって、怜が言う。
 呼びかけられたその声に、龍二郎は首だけを回して振り返る。

「助けて下さって、ありがとうございました。あの時は本当に、どんどん動けなくなって、このまま死んでしまうのかと・・・、声をかけてくれた時はまともに話せなかったけど、とても嬉しかったんです」

「・・・別に。ただの気まぐれだ。普段なら放っておく」、と龍二郎はぶっきらぼうに言った。
「でも、俺は助けてもらったので。ありがとうございました」、と怜は微笑した。
「・・・いや」、と龍二郎は言う。

微妙に視線を外したまま答える龍二郎に、再び怜は笑いかけ、
「・・・おやすみなさい」
 と、言った。

 そこで龍二郎は怜に視線をやり、数秒の後、
「・・・ああ・・・、・・・おやすみ」
 と言い、今度こそその部屋を出る。

 かちりと音を立てて完全にドアが閉まったのを確認してから、龍二郎は上げた左手で左側の首を撫でつつ、おやすみなさい、か。とひとりごちる。

 その単語を使ったのは、一体いつ以来になるのか。
 いくら考えてみても、思い出せない。
 少なくともこの10年くらいは使っていない気がした。

「・・・思わず、言い淀んじまったし」

 苦笑しつつ龍二郎は棚の中から予備の毛布を出し、束の間の眠りを求めてソファに身体を横たえた。