Two Moon Junction

第25話

 それから数ヶ月の後 ―― 東京都内の道路脇に植えられた銀杏の木が、紅葉しきった頃。

 仕事で1週間ほど大阪に行っていた龍二郎が帰宅したのを、怜は待ってましたと飛びつかんばかりの勢いで出迎えた。
 一瞬、何事かと驚いた龍二郎だったが、すぐに唇の左端を歪めるようにして笑い、
「そんなに寂しかったのか?なんならご期待にお応えして、すぐに可愛がってやろうか?」
 と、言った。

「か、帰ってきて早々なに言ってるんだよ、そんなんじゃないし」
 ぱっと顔を赤らめて、怜は言った。
「“そんなんじゃない”のか?本当に?」
 強引に怜の腰を捉えて引き寄せた龍二郎が、その耳元で低く囁く。

 身体を密着させられ、服越しでも分かる龍二郎の筋肉質な身体と、そこから薄く立ち上る煙草の匂い。
 それらを感じるだけで、怜は身体の奥底が震え、ざわりと背骨を奇妙な感覚が這うのを感じた。

 再び一緒に暮らすようになって以降、龍二郎と2日以上離れて過ごしたのは今回が初めてだった。
 寂しかったのだろうという指摘に、きっぱりとそんなことはないと言い切れる自信は、怜には全くなかった。

 黙ってしまった怜の頤(おとがい)をすくい上げ、龍二郎がその唇を奪う。
 最初は表面をなぞるだけだったそれは、徐々に速度と熱を上げてゆき ――――

「・・・っ、ちょ、っと、話が途中!」
 玄関先で怪しげな展開になりそうなのに力一杯抵抗して、怜が喚いた。
「こっちも途中」
 離れようとする身体を引き止める素振りを見せながら、龍二郎が言った。
「俺が先だったじゃないか、順番だよ、順番」
「・・・何だよ」
「あのね、就職が決まったんだよ、やっと」

 嬉しそうに怜が報告し、それを聞いた龍二郎はすっと両目を眇めた。

「無理して働くことはねぇって、言っただろうが」
「だからその度、そういう訳にはいかねぇって、答えただろうが」
 龍二郎の言葉尻を真似て、怜は言った。そして笑う。
「・・・龍二郎さんが俺のことを心配してくれてるのは知ってるし、嬉しいとは思ってるけど、それに甘えてちゃいけないと思うんだよ」
「どうして」、と龍二郎は訊いた。
「そんなことを続けてたら、色々なことが駄目になっちゃうと思うから」、と怜は答えた。
「色々なことって?」、と龍二郎は重ねて訊いた。
「色々は、色々だよ」
 と、怜は口元に微笑を浮かべ、じっと龍二郎の両目を覗き込むようにした。
「龍二郎さんも俺が何を言っているのか、本当のところは分かっていると思うけど」
「・・・ふん」
 ワイシャツの襟元からネクタイを引き抜きながら、龍二郎は面白くなさそうに肩を竦める。
「で、どんな会社なんだよ、それ」
「会社って言うか、親子2人と事務の人がいるこじんまりとした会計事務所だよ。今いる事務の人が今月一杯で辞めちゃうから、その代わりで。
 そうそう、興味があるなら資格を取る勉強もさせてくれるって言ってた。俺、結構得意な分野だと思うんだよね、そういうの」
「・・・ああ、それはまぁ・・・、場所は?この近くなのか」
「うん、新宿の法務局のすぐそば ―― あ、もしかして龍二郎さんの担当区域だったりする?」
「いや、法務局の辺りだったら、及川さんのシマかもな・・・、しかし、うーん、会計事務所か・・・」
 上げた右手の人差し指でこめかみをかきながら、龍二郎は言い淀む。
「・・・何か、まずい?」
 着替える龍二郎の後ろに付いて来ていた怜が訊く。
「・・・んんん、しかしそんな堅いとこなら、色々と訊かれただろう。大丈夫だったのか、そういうのは」
 と、龍二郎は話を逸らしながら訊き返す。

 一番最初に怜にも言ったとおり、このマンションが龍二郎の持ち物だというのは、相当面倒な手間隙をかけないと分からないようになっている。
 その辺りに事務所を出しているのであれば顧客にヤクザがいる可能性もあるが ―― 何らかの利益を上げている団体であれば、その所属の裏表は関係なく、税理士というのは絶対に必要なのだ ―― 現段階では怜と龍二郎の関係など掴みようがないであろう。
 ヤクザと付き合っておいて国家資格を取ろうと考えるのも凄い話だが、弁護士などよりは可能性はあるかもしれない。
 そんなことをやろうとした人間を知らないので、良く分からないが。

 だが何はともあれ働く本人のことはそれなりにきちんと訊かれたであろうことは、間違いなかった。
 怜が一体どういう説明をして就職を決めたのか興味もあったし、何より本当に大丈夫なのかと心配でもあった。

 だが当の怜は龍二郎の心配などどこ吹く風といった様子で、
「ああ、その点なら大丈夫。全部話して、分かってもらったし」
 と、答えた。

 その言い方があまりにさらりとしていたので、釣られてさらりと流しかけた龍二郎だったが ―― 怜が“全部”と言い切ったのに引っかかりを覚えた。

「・・・全部って?」
 微妙に嫌な予感を覚えつつ、龍二郎は訊いた。
「全部は全部だよ」
 引き続きさらりと、怜は言った。
「家のこととか、大学を病気で中退してることとか・・・あともちろん、龍二郎さんのこともね」

「・・・俺のこと、だって・・・?」
 呆然と怜を見下ろし、龍二郎は言った。
「うん」
 当たり前のような顔をして龍二郎を見上げて、怜は言った。
「これまで何社も受けてきたけど、俺ずっと、嘘ばっかり言ってたんだよね。本当のことは名前と年齢くらいで、家のことも親のことも病気のことも、住んでる場所のことも ―― 本当のことは殆ど何も言ってなかった。
 でも池上先生に全部話して、分かってもらえたことが凄く嬉しくて、そういう人を大事にしていきたいと思ったんだ。そのためには俺が嘘をついてちゃ駄目だって」
「・・・しかし、お前な、そりゃあ ―― いや、そもそもそんなことを言って、良く雇われたな」
「うん、確かに言った途端に面接してもらえないところもあったよ。今回も驚かれたけど、大先生 ―― 70才近くのおじいさん先生の方が、そんなことを面接のしょっぱなから告白するなんて面白いって、大笑いしてくれて」
 と、怜は説明し、その時のことを思い出しているのか、小さな声を上げて笑った。
「若先生って呼ばれてる息子さんの方は最後まで心配そうだったけど、特に何かされたりとかはないのかって確認されて、それはないと思うって言ったら、じゃあ来月から来てみなさいって ―― 何かしたりなんか、しないよね?」

 そこまで聞いた龍二郎は再び言葉を失い、緩く首を横に振って答えとしながら力なくベッドの端に腰を下ろした。

 怜にはこれまで、大小様々なことで散々驚かされてきた。
 だが今回のことは流石に、予想外の遙か果てをいっていた ―― いや、一瞬嫌な予感を覚えはしたが、まさかそこまで、と思う気持ちもなきにしもあらずだったのだ。

「やっぱり分かってくれる人っているし、嘘はいけないよね。今回つくづく、勉強になったよ」

 脱力している龍二郎の隣に腰をおろして、怜がにこにこと言った。

 龍二郎は何も答えなかった ―― 何をどう言えばいいのか、皆目見当もつかなかった。
 だが何も言わずにいられる訳もなく、痛む頭を抱えつつ、龍二郎は口を開く。

「・・・あのな、言っておくが今回はたまたま運が良かったというか、非常に希なケースが奇跡的に続いただけだ。
 基本的に俺とのことは、隠しておくべきなんだからな」

 噛んで含めるように龍二郎は言ったが、怜は明らかに納得出来ないというような顔をして、首を傾げていた。

 今後自分は、相当怜に振り回されることになるのではないか。
 そして怜と一緒にいることに対して覚悟が必要なのは、自分の方なのではあるまいか。

 怜の様子を横目で見ながらそんな予感を覚え ―― 壮大なまでの空恐ろしさを感じる、龍二郎であった・・・。

―――― Two Moon Junction END.