Side-A

「ちょっとちょっと、そこの子!ねぇったら ―― ねぇ、ちょっと、待ってって言ってるのにっ!!」

 龍二郎さんの元に戻ってから数週間が経過した、とある昼下がり。
 殆ど怒鳴り声というのに近い声と同時に強く腕を掴まれ、俺はびっくりして振り返る。

 確かにさっきから、待ってよとか、ねぇったら!とか、そういう類の声がしていたのは知っていた。
 だが俺はまさかそれが、自分に対して投げられている言葉であるとは、思わなかったのだ。

 振り返ったそこには、派手な雰囲気の女の人が一人、立っていた。
 派手とはいえ、似合っていないという意味ではない。
 メイクも髪型も服装も、全て普通の人がやったら眉を顰められそうなほど派手だったが、彼女には誂えたようにとてもよく似合っていた。
 頭のてっぺんから足のつま先まで、相当お金をかけているのだろう。
 とにかく何から何まで、完璧にゴージャスな女性だった。

「あなた、佐伯さんの知り合いよね?」、と女性は言った。
「・・・ええと・・・、あなたは?」、と俺は訊いた。
「ああ、ごめんなさい ―― 私はマイコっていうの。私もね、佐伯さんの、シリアイ」
 と、マイコさんは言って意味深長な笑いを浮かべた。
「・・・・・・。
 それでそのマイコさんが、俺にどういったご用件でしょうか」
 何となくむっとしながら、俺は訊いた。
「あなたが佐伯さんと一緒にいるのを、前に見かけたことがあるのよ」
 マイコさんは言いながら、さりげなく、ごくごく自然なやり方で俺の腕に手を絡め、すっと俺の耳元に唇を寄せた。

 これはプロだな、と俺は思う ―― ホストをやっていた頃、こういう女性を山ほど見た。
 中でもこのマイコさんのやり方は、上級者のそれだ。
 身構えさせることなく、空気のように自然に人の傍らに身を添わせる。
 こういうのは努力や真似で出来るものじゃない。
 それは天性と言うのに近いもので、仕事をする上で彼女の最大の武器となっているに違いない。

「佐伯さんたら最近、全然声かけてくれないんだけれど、あの人がどうしているか、あなた、知ってる?」
「・・・どうって・・・、別に元気だと思いますけれど」
「良く会うの?」
「ええ、まぁ・・・」
「ふぅん?」
 と、マイコさんは言って、ちらりと上目遣いで俺を見た。

 まさか俺が龍二郎さんの恋人で、一緒に暮らしているとまでは考えないだろうが、なんだか色々見透かされてしまいそうで、心が騒ぐ。

「・・・じゃあ今度会ったとき、連絡くれるように言ってくれる?マイコが会いたがってたって・・・名前を言えば分かると思うけど、一応連絡先はね、ここ」

 そう言って、マイコさんは流れるような動作で一枚の名刺を差し出した。
 そこには、マイコさんの名前と電話番号だけが書かれていた。

 こういう名刺もかつて、見せてもらったことがある ―― いわゆる高級の中でも最高級の娼婦を揃えている機密性の高いクラブで、会員費やら1回の費用やらがアホかというほどかかるという。

 龍二郎さんはそんなクラブの会員なのだろうか?
 かつて・・・だろうか、それとも今も・・・?

「あんなに満足させてくれる人って、滅多にいないわ。愛されてるって勘違いする人も多いって噂だけど、まぁ、あれじゃあ仕方ないわよね ―― って、こんなこと、あなたに言っても分からないでしょうけど」

 いえ、分かると思います。とも言えずに(当たり前だ)、俺は曖昧に頷く。

「とにかくいつもと同じで、お金なんて野暮なものは抜きで楽しみましょうって、伝えて。じゃあね」

 ひらひらっと手を振って、マイコさんは俺の前から去っていった。

 その後ろ姿が雑踏の向こうに見えなくなってから、俺はため息をつく。
 そして渡された名刺をブルー・ジーンズのヒップ・ポケットに突っ込んで、その場を後にした。

 その夜、龍二郎さんが帰ってきたのは、午前0時少し前のことだった。

「・・・おかえり」

 ベッドに入ってきて、俺の身体に腕を回してくる龍二郎さんに、俺は言う。
 いつも通り龍二郎さんは答えず、その代わりとでも言うように、更に深く俺を抱き込んでくる。
 その拍子に、薄いアルコールの匂いが鼻をついた。

「・・・飲んでる?」
「んん、及川さんのところに行って、・・・それから、ちょっと・・・」
「ふぅん・・・、ところでシャワーくらい、浴びて来れば?」

 ドア・ロックがおろされる音からそう時を置かずに龍二郎さんがベッドに入ってきたのを知っていたので、俺は言った。
 特に他意はなかったのだが、返ってきた龍二郎さんの答えは、

「いい。入ってきたし・・・、」

 などという、耳を疑うような、到底看過出来ないものだった。

「ちょっとそれ、どういう意味?っていうか、そうだとしても、わざわざ俺に言うなよそんなこと!デリカシーってもんはないわけ!?」

 身体に回された龍二郎さんの腕を払いのけ、がばっと身体を起こして俺は言ったが ―― 龍二郎さんはすでに熟睡していた。

 怒鳴ってみてもつねってみても揺らしてみても、蹴飛ばしてみても、起きる気配がまるでない。

 以前、人の横じゃ眠れないのに、お前だけは別なんだよな。などと言っていたのは、絶対に嘘だと思う。
 きっと手当たり次第、誰にでもあんなことを言っているのだ。

 日中に会ったマイコさんの、
“愛されてるって勘違いする人も多いって噂だけど、まぁ、あれじゃあ仕方ないわよね”
 という言葉が、耳元に鮮明に蘇ってくる。

 本当に、あんなことを言われては勘違いするなという方が無理な話だ。

 ああもう、ムカつく、ムカつく、ムカつく。
 こんな男の人を ―― あんな話を聞かされ、こんな事を言われても、それでもまだ、どうしようもないくらいに好きな自分も、ムカつく。

「ああもう、馬鹿みたいだ」

 誰に言うともなく俺は呟き、力任せに龍二郎さんをベッドの端に押し退け、その逆側に乱暴に身体を横たえた。