Side-B

「・・・だからって俺のところに来て怒られてもさ・・・」

 と俺は言い、上げた右手でばりばりと後頭部をかいた。

 俺の名前は、新橋隆彦(しんばしたかひこ)。
 西武新宿駅側にある病院に勤めている医者だ。因みに専門は脳神経外科。

 そして目の前で不機嫌そうな顔をしている少年は、葛原怜。
 数ヶ月前、怪我をして行き倒れているところを俺の友人である佐伯龍二郎 ―― 彼は新宿に本拠地を置く広域指定暴力団、九竜会系芳賀組の若頭だ。何故そんな裏社会の男と俺が親しくなったのかには理由があるのだが、長くなるので割愛する ―― に拾われ、以降そのまま、彼のマンションに居候している。

 聞くところによると怜くんは、極道の敵とも言える検察や警察のエリート一族の息子なのだという。
 龍二郎の友人としては、そんな子を手元に置いていたら危ないからやめてくれと、正直、思う。
 が、そういう相手であっても適当に見捨ててしまえない龍二郎だからこそ、極道であるという事実を越えて肩入れしたくなるのだ。

「・・・それで、怒って飛び出して来たのか?」
「一晩経っても全然怒りが治まらなかったので、今朝、龍二郎さんが寝ている間に」
「ふーん・・・、それから今までずっと、あちこちで時間を潰してたわけ?」
「ええ、まぁ。でもまだ煮えくり返ってる感じで、今龍二郎さんの顔を見たら殴っちゃいそうなんです」
「龍二郎を殴っちゃう、ねぇ・・・」
 と、俺は言って時計を見上げる。

 時計の針は、21時を15分過ぎた時刻を指していた。
 朝の8時にマンションを出たとしても、半日以上経っていることになり ―― どうにも理解に苦しむ。
 龍二郎の愛人に会ったからといって、どうして怜くんがそんなに長時間怒らなればならないのだ?

 内心激しく首を傾げつつ、とりあえず、と玄関先で膨れている怜くんを家に上げ ―― 俺はその理由を理解した。

「おい、龍二郎って、男もいけるクチだったのか!?」
 靴を脱ぐ怜くんの背中を思わず指さして、俺は叫んだ。
「・・・え?どうしてですか?」
 きょとんとした顔で振り返り、怜くんが言った。
「どうしてって、首の後ろ、キスマーク。べったり。それ、どう考えても相手、男だろう?」
「・・・、あー・・・、っと、でも、どうして相手が龍二郎さんだと?」
 首の後ろを手で隠しながら、怜くんが訊いた。
「いや、流れ的に言って普通、分かる」

 色々な意味でぐらつく頭を抱えながら俺は答え、リビングに怜くんを案内する。
 そして麦茶とウィスキーを入れたグラスの、麦茶の方を怜くんに渡しながら、リビングのテーブルを挟んで座った。

「・・・で、それ・・・まさか龍二郎が無理矢理・・・なんてないよな?」
 そうだったら絶交だと思いながら、俺は訊く。
「まさか、そんな・・・ある意味俺から誘ったような感じかも」
 今更隠しても仕方ないと思い極めたように淡々と怜くんは答え、そのまま独り言のように続ける。
「だから ―― 、龍二郎さんに恋人が沢山いるのは最初から本人に聞いて知っていて、その上でのことでしたし・・・、そもそも俺は龍二郎さんに文句を言えるような立場じゃないことも、頭では分かっているんです。でもこうなってる今、わざわざそんなことを俺に言う必要はないだろって、思っちゃって。
 しかもあんなに満足出来る人はいないとか、勘違いしてる人がいっぱいいるとか・・・どれだけ遊び回ってるんだよっていうか、誰にでもそうなんだっていうか、適当に甘いことばっかり言ってんなっていうか ―― そもそもその道のプロに、お金はいらないからとか言われてねだられてるなんて、どうなんですか、そんなの・・・誰にでもいい顔して、夢中だみたいな顔をして、そういうことを言ったりやったりして、そういうの、想像出来るだけにムカつくっていうか、こんなこと考える自分も嫌っていうか、もう本当に、頭の中、ぐっちゃぐちゃ・・・、龍二郎さんってほんっと、ムカつく・・・」

 怜くんの言葉の後半半分は管を巻くというのに近い様相を呈し、その目がどことなく座っているように見え ―― 俺は思わず、自分が手にしているグラスの中身を確認してしまう。
 誤って怜くんにウィスキーのグラスを渡してしまったのかと思ったのだ。
 が、俺の手の中の琥珀色の液体は確かにウィスキーで、怜くんが飲んでいるのは麦茶だった。
 麦茶でこれだけ酔っぱらった様子になれるとは、余程腹に据えかねているのだろうし ―― 何より、本気で龍二郎が好きなのだろう。

 つくづく、龍二郎も罪作りな男だ、と俺は思う。

 長いつきあいになるため、俺は龍二郎の女性遍歴をある程度見て、知っていた。
 怜くんの予測は正しく、龍二郎は本当に女性 ―― 特に玄人受けする男だった。
 顧客に有名政治家が何人もいるという噂のある女に、貢がれる必要がないのに貢がれているような状態でいたことがあったのも、知っている。
 本人は飽きっぽいというか、一人の女性にもお金にもそれほど執着することはないようだったが、彼が女を切らしているのを見たことはない。
 相手が男だったのは今回が初めてだが、これまでの龍二郎を見る限り、怜くんと長く続くとは考え難かった。

「・・・それで、昨日は龍二郎、どこに行ってたって?」
 頭でそんなことを考えながら、俺は訊いた。
「さぁ・・・相手のことなんか、知りませんけど。及川さんって人のところに行って、その後とか言ってましたけど」
 麦茶のグラスの縁を噛みながら、怜くんは答えた。
「及川さんだって?」、と俺は言った、「ああ、それだったら昨日のことは誤解だ」
「どうしてですか?」
「及川さんは表の稼業でジムを持っていて、龍二郎は度々そこへ通ってるんだ。昨日はその、トレーニングの帰りだったんだろう」
「・・・そう ―― なんでしょうか・・・」
「及川さんの所って言ったのなら、可能性は高いと思うよ。真偽のほどは本人に確認しないと確実とは言えないけどな」

 だがそう言っても怜くんの唇は未だにへの字に近い形になっていて、完全に心が晴れていないのは一目瞭然だった。
 シャワーを浴びてきたと言われたことより、マイコという女性に聞いた話の方が心にかかっているのだろう。

「ま、とりあえず今日は遅いし、ここへ泊まっていけばいい。君とは一度きちんと話をしてみたかったし、龍二郎の言う旨い手料理ってのも食べてみたいし ―― ところで怜くん、龍二郎に連絡は?」
「してません」
「じゃあ連絡だけはしておけよ。そこの電話、使っていいから」
「・・・別にいいんじゃないですか、そんなの。俺が一晩いなくたって、他の人がいくらでもいるんでしょうし」

 吐いて捨てるように怜くんは言い、手料理が食べたいと言った俺の為に、キッチンへ入っていってしまった。
 やはりまだ怒りは治まっていないらしい。

 そうかと言って放っておく訳にも行かないだろうと、俺は別室にある電話で龍二郎に電話をかける。
 電話は2回目のコールが鳴り終わらないうちに繋がった。

「龍二郎、お前いつから男もいけるなんて、大規模な宗旨換えをしたんだ?」

 はい佐伯。という不機嫌な声を確認してから、俺は言った。
 その言葉で何が起きているのか理解したのだろう、龍二郎はため息をつく。

「・・・怜からだよ」、と龍二郎は言った。

 相変わらずぶっきらぼうな、しかしどことなく照れが見え隠れするような声を聞いて俺は笑い、ざっと怜くんのことを説明する。

「・・・マイコって誰だそれ、覚えてねぇぞ、そんな女。余計なことを言いやがって、忌々しい」
 と、龍二郎は言った。
「逆ギレするなよ、明らかに自分が撒いた種だろうが。これに懲りたら少しは自重しろ ―― 今回なんか特に、素人の堅気だなんて、驚かされたぞ」
 と、俺は言った。
 龍二郎は回答を避けた。「 ―― それで怜の奴、今日は帰らないって?」
「ああ、まだ怒ってるみたいだし、今日の所はここに泊めるよ。落ち着いたら帰ると思うけど・・・明日様子を見て、また連絡する」
「・・・ああ、分かった ―― おい、新橋」
 じゃあな。と電話を切りかけた俺を、龍二郎が呼んだ。
 置きかけた受話器を再度耳に押し当てた俺は、

「手ぇ出すなよ」

 という、思いがけなすぎる龍二郎の低い声を聞き ―― 愕然として耳を疑う。

「・・・な、何だって?」、と俺は言った。
「何でもねぇ。じゃあな」、と龍二郎は言った。

 がしゃんという音と共に通話は切られたが、その後もしばらくの間、俺は呆然として切れた受話器を見詰めていた。

 信じられない、有り得ない、言葉だった。
 しかし鼓膜に刻印された、これまで一度も聞いたことのない龍二郎の脅すような声音が、それが夢や幻聴でないことを教えてくれる。

 軽く身震いしてから、俺はキッチンに向かう。
 そしてそこに立っている怜くんに、
「・・・おい、怜くん、君、今すぐ帰れ。帰ってくれ」
 と、言った。
 包丁を手にしたまま、怜くんは不思議そうに俺を見る。
「何です、突然?」
「何ででも、帰ってくれ ―― 今から龍二郎を呼んでやるから」
「・・・いいですよ、龍二郎さんなんか呼ばなくて」
 さも嫌そうに、怜くんは言った。

 どうあっても、今日は龍二郎の元に帰る気はないのだろう。
 だがここにいられるのも困るが、ここを追い出して誰も知らない場所に適当に行かれては、もっと困るのだ。

「いいか、良く聞け、若者よ」
 と、俺は厳かに言った。
「俺は龍二郎とは本当に長いつき合いになる。さっきは言わなかったが確かに怜くんの言う通り、龍二郎は身持ちの堅い男だったとは言えない」
「・・・でしょうね、いかにも。想像がつきます」
「そう、だが過去はともかく、今現在みたいな龍二郎を俺は、全く想像も予測もしていなかった」
「どういう意味ですか、それ?」
 首を傾げて、怜くんは言った。
「今龍二郎に電話をして君のことを話したんだが、龍二郎は俺に、何て言ったと思う?」
 空間に人差し指を立てて、俺は訊いた。
「 ―― さぁ・・・、何て言ってました?」
 興味があるようなないような、半々の言い方で、怜くんが言った。
「怜に手を出すな。そう言っていた」
「・・・何ですかそれ。失礼すぎ」
 さっと顔を赤らめて、怜くんは言った。
「あなたとは違うんですって、いつかの首相みたいに言い返してやれば良かったのに」
「そうだね、今思えばそうだな」
 空間に上げた手をおろして、俺は笑った。
「俺は彼に多大なる恩義があるし、その上今は龍二郎の親友でもある。だから俺は何があろうと彼のものに手を出したりしないし、それは龍二郎も分かっているんだ。
 だがそれでも“手を出すな”と念を押さずにいられない ―― この意味するところは、君も分かるだろう」
「・・・・・・。」
「悪いが俺は、君より龍二郎との友情の方が大事なんだ。もちろん君に手を出したりはしないが、少しでも龍二郎に疑われる可能性のある行動は避けたい。
 だから悪いが、帰ってくれ ―― 龍二郎を呼んでもいいな?」

 と、俺は言い ―― 怜くんは少し考えてから、小さく頷いた。

 再度の電話をかけて約1時間後、龍二郎が俺の家にやってきた。

「・・・迷惑かけたな」、玄関先で開口一番、龍二郎は言った。
「いや、別に何も」、龍二郎を家に上げながら、俺は言った。
「ところで怜はどうして、お前の家を知ってんだ」、と龍二郎が訊いた。
「あの子が怪我をしていたときに一度、薬をここまで取りに来てもらった。お前にも言ったぞ」、と俺はおとなしく説明した。
「・・・そうだったか?」、と龍二郎が言った。
「そうだったんだよ」、と俺は言った。

 そこで我々はリビングに着き、これ以上妙な突っ込みをされないで済むと俺はほっとする。
 怜くんに関して後ろめたいことは何もないが、こうさりげないが厳しい追及に晒されると、どうにも居心地が悪い。

「おい、怜、そんなとこに座ってないで早く来い。ったく、手間かけさせんじゃねぇ」

 スラックスのポケットに両手を突っ込んで、龍二郎はリビングのソファに座る怜くんに言った。

「何で俺が怒られなきゃならないんだよ。怒りたいのはこっちだし」
 ソファの上で腕組みしたまま、怜くんは冷たい目で龍二郎を睨んだ。
「・・・んな、昔の話を蒸し返されてもどうにもなんねぇだろうが。今更変えられねぇことでグダグダ言うな」
 顎を薄く上げるようにして怜くんを睨み下ろし、龍二郎が言った。
 普通なら怖じ気付くところだが、怜くんは却って頑なになった様子だった。

「・・・過去のことだからって、全て水に流せると思ったら大間違いだと、俺は思うけど」
「だったらどうしろって言うんだ。泣いて土下座でもしながら、謝りゃいいのか?」
「そういう物言いがムカつくんだよ。大体あのマイコさんが言ってたけど ―― 」
「そもそもそのマイコなんて女を覚えてねぇんだっての」
「そうやって過去のことだ、覚えてないって繰り返すところが、全てを物語ってるよね ―― 後ろ暗いところがあり過ぎて、説明出来なくなってる政治家みたい」
 これ以上我慢出来ないとでも言うように立ち上がり、怜くんは真っ直ぐに龍二郎を睨んだ。
「お金はいらないから連絡ちょうだいとか、愛されてるってあちこちで誤解されるほど、甘いことを言ったりやったりしてるとか ―― 適当に遊び回るにもほどがあるだろっての、このエロ魔神!」
「・・・エロ魔・・・って、てめぇ・・・、黙って聞いてりゃ言いたい放題言いやがって、いい加減キレっぞ俺も」
「なに威張ってるんだよ、別にいいよ、どうぞキレれば?
 それに黙って聞いてるって、どこがだよ。さっきから過去のことだとか忘れたとか、言い訳ばっかりしてるくせに」
「・・・ふざけんな、それはお前が ―――― 」

「ストーーーーーーップ!!!」

 聞くに耐える限界を超えたところで、俺は怒鳴った。
 2人は同時に口をつぐみ、叫んだ俺を見た。

「おまえら、そんな喧嘩を人の家でしないでくれないか ―― 続きは自分たちの家に帰ってやれ」

 そう言って、俺はぴしりと玄関の方角を指さす。

 2人は言い争いを中断されて不服そうではあったが、俺の主張に反論は出来なかったのだろう。
 俺に一応挨拶をし、互いに憮然としてそっぽを向きながら帰っていった。

 喧嘩をしながらも龍二郎が怜くんを先に車に乗せるのを窓から見送りながら ―― あれは家に着く前に仲直りするんじゃなかろうか、と予測しながら ―― 俺は、深いため息をつく。

 なんだかどっと疲れたが、どことなく羨ましい気も(少しは)した。

「あーあ、俺も独身貴族廃業して、結婚・・・まではともかく、恋人くらいは作るべきかもなぁ・・・」

 思わず呟いた自分に苦笑しながら、俺は開けていたカーテンを勢いよく、閉めたのだった。

―――― Two Moon Junction 番外編 jealousy END.