Love Potion

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 その日 ―― 師走に入って一番最初の土曜日の、良く晴れた昼下がり。

 新宿伊勢丹の正面玄関を通って店内へと足を踏み入れかけたところで唐突に後ろから肩を叩かれ、怜は反射的に振り返った。
 そしてそこに立ち、自分の肩に手をかけている人物を見て、目を丸くする。

「 ―― 慶(けい)兄さん・・・!」
 と、怜は言った。
「・・・怜。久しぶりだな」
 と、怜のすぐ上の兄にあたる慶は言って、微かに笑った。

 そう、そこで怜に声をかけたのは、1年以上もの間、怜とは会っていなかった怜の兄、葛原慶(くずはらけい)だった。

 思いがけず兄と顔を合わせて驚く怜に慶は、久々だし、どこかでゆっくり話が出来ないか。と言った。
 断る理由もなかったので ―― ここへは夕飯の買い物に来ていたのだった ―― 怜は頷き、兄弟は連れ立って伊勢丹の裏手にひっそりと店を構える喫茶店に入った。

「就職したって、聞いたよ ―― 大久保にある、会計事務所だって?」
 案内された席に腰を下ろして注文を済ませてから、慶は言った。
「ああ、うん。知ってたんだ・・・調べたの?」、と怜は言った。
「そりゃあ、お前 ―― 当然だろう、家族なんだからさ。心配して調べるよ、普通」、と慶は言った。
「・・・ん・・・、そっか」、と怜は言った。
「しかし、あんな小さなところじゃ、仕事なんか少ないんだろう?経営の方なんかは、大丈夫なのか」
「・・・経営のことまでは俺はタッチしていないから、大丈夫かどうかは分からないけど・・・でも昔からの顧客が結構たくさんいる事務所なんだ。
 大先生も若先生も凄くいい人だから、人がつくんだと思う ―― だから、忙しいときは忙しいよ」
「そうなのか?しかしお前も、もう少し頑張れば良かったんだよ。ヒス起こしたくなる気持ちは分からなくもないが、もう少し根性出して我慢すれば、将来安泰だったのに ―― 少なくともあんなうだつの上がらなそうな、小さな事務所なんかでくすぶっていなくても良かったんだ」
 と、慶はやれやれという風に首を横に振りながら、言った。
「・・・、・・・。
 ところで、みんな元気にしてるのかな」
 話題を変えて、怜は訊いた。
「・・・ああ、まぁ・・・相変わらずだよ」
 唇を歪めて、慶は答えた。
「・・・、そっか。・・・」
 肩をすぼめて怜は言い、すっと目を伏せる。

 そこで注文したものを手に無表情なウェイターがやって来て、2人の前にコーヒー・カップと、ミルクの入ったピッチャーと砂糖の壷を置き、去ってゆく。

 その後も、会話は途切れたままだった。

 怜は目を伏せた状態で何も言わず、動くこともせず ―― 慶はどうしたものかという風に、そんな怜を見ていた。
 が、やがて慶は場を仕切り直すように軽く咳払いをしてから椅子に座り直し、
「・・・ところで・・・なぁ、怜。実はちょっと、お前に折り入って頼みがあるんだ」
 と、言った。
 その兄の声を受けて怜は顔を上げ、
「 ―― 頼み?俺に?」
 と、言った。
「そう。お前に」、と慶は言った。
「・・・どんなこと」、と怜は訊いた。
「別にそんなに難しいことじゃあない、簡単なことさ ―― もちろんきちんと、礼はする。
 事と次第によっては、今のところなんかで働いているより、ずっといい金になるんじゃないかと思う」
 まくし立てるように、慶が説明する。
「・・・どんなこと」
 淡々とした言い方で、怜は繰り返す。
「ああ ―― あのさ、お前、佐伯龍二郎って男を、知っているだろう」

 慶の口から龍二郎の名前が出た瞬間、怜の顔つきが微かに変わった。
 だが慶はそれを気にすることなく ―― あるいは気付かず ―― テーブルの上で組んだ両手の上に、身を乗り出すようにした。

「お前がなんであんなのと面識があるのかは知らないが、あの男は芳賀組の陰の懐刀と言われている男だ。数年後には芳賀組内ではもちろん、九竜会内でもなくてはならない男になるだろう ―― 都内でも一番締め付けの厳しい歌舞伎町のど真ん中で、派手に勢力を伸ばしているし、そのくせちっともボロを出さないことでも有名だしな・・・まぁ、俺たちから見れば、忌々しい男さ。
 検察内では陰であくどい事をしているに違いないと睨んでいるんだが、相当うまく脅してるかなんかで、あいつのシマの店はどこも口が堅くて困っていてな」

 と、そこまでを吐き捨てるように言った慶は、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
 そしてすぐに顔をしかめ、カップの中にミルクと砂糖を追加して入れる。
 おそらく余り美味しくないのだろう、と怜は思った。

「で、そこでお前の存在が判明した、という訳だ。
 最初聞いたときは、一体何をやっているんだと怒り心頭だったが・・・、考えてみれば警戒心の強い九竜会の組織に潜り込めたのは、もの凄い大手柄だ。よくやってくれた」
「・・・・・・。」
「さっきも言ったが、情報に見合った報酬は払う。内容によっては報酬のベース・アップも考える。
 なに、そんなに難しく考えなくていい、どんなに小さな情報でも構わないんだ。知っていることや聞いたことや見たことを、定期的に教えてくれればいい ―― 頼むよ、怜。この通りだ」

 慶は言い、怜に向かって軽く頭を下げるようにする。
 そんな兄の姿を、怜は少しの間、黙って見ていた。

 中くらいの沈黙の後、怜はやがてひとつ、息をつく。

「・・・分かった。いいよ」、と怜は言った。
「本当か」、と慶が表情も明るく、言った。

「うん」、と怜が無表情に頷く。そして訊く、「それで、知りたいことって例えば、どんなこと」