第1話
きちんと説明しようと思った。
いっぺんに全てを理解してもらえなくても、ひとつひとつ丁寧に説明してゆけば、分かってくれるのではないかと思った。
そう、思いたかった。
けれど件の雑誌から俺へと移された龍二郎さんの視線は凍えるように冷たく、蔑むように厳しいものだった。
その糾弾の視線に晒された瞬間、俺は紡ごうとしていた言葉の悉くを、一瞬にして見失ってしまう。
次いで龍二郎さんが口にした言葉は、視線よりももっと凍えていた。
これまで、ちょっと信じられないと感じるほどに大切に扱って貰っていただけに、そのギャップはきつ過ぎた。
きちんと説明をしなかった自分が悪いとは言え、ショックのあまり、言葉が出ない。
せめて龍二郎さんの名前だけでも呼ぼうと必死の努力をしたが、その努力が実ることはなかった。
「 ―― 出て行け」
と、最後に龍二郎さんが言い放つ。
それはもうなにひとつ、ほんの少しも、俺なんかに興味がないような、そっけない声だった。
目の前が、一気に、暗くなった。
次に気付いたとき、俺は見も知らぬ場所に一人、立っていた。
自分がどこにいるのか、全く分からなかった。
「・・・ここ・・・、どこだ・・・?」
思わず声に出して訊いてしまったが、答えは返らない。
自分の様子を見下ろしてみると服装は朝に着替えたときのままで、手には元々自分が実家を出たときに身の回りのものを入れる為に持ってきたデイ・バックがひとつ、下げられている。
目の前には私鉄のものらしき線路沿いに道が真っ直ぐに延びていて、人影はない。後ろを振り返ってみても、やはり人影はなかった。
とりあえず近くにあった地図で現在地を確認してみて ―― 俺は茫然とする。
なんとそこは、本駒込駅にほど近い場所だったのだ。
“出て行け”と言われた次の瞬間からの記憶が全くなかったが、出発点が龍二郎さんのマンションのある新宿であることは間違いない。
つまり自分は無意識のまま新宿を縦断し、恐らくは都電沿いにずっと、こんなところまで歩いてきてしまったのだ。
錆の浮いた地図表示の前に、俺は崩れるようにしゃがみ込む。
泣いてもおかしくない状況だと思ったが、俺は泣かなかった。泣けなかった。
身体中が砂漠化してしまったかのように干からびていて、水分が感じられない。
涙どころか、血液すら流れていないのではないかという気がする。
夏の最中であるはずなのに、激しい悪寒と吐き気を覚えた。
そこでどのくらいの間、そうしていただろう。
はっきりとは分からないが、いつまでもここで座り込んでいるわけには行かないと、俺は立ち上がる。
が、立ち上がった瞬間に、途方に暮れる。
一体自分はこれから、どうすればいいのか。
生まれ育った家を出てきた際には、ここでなければどこだっていいと思っていた。
しかし今帰りたい場所は、ただひとつだった。
あそこ以外のどこにも、帰りたくなかった。
「・・・、馬鹿みたいだ・・・」
と、俺は呟く。本当に、本当に、俺は馬鹿だと思う。
あんなにきっぱりと追い出されたというのに、それでも未練がましく帰りたいと願うなんて。
本当に自分はこれから、一体どうやって生きてゆけばいいのだろう・・・。
再びその場にうずくまりそうになるのを堪え、なぜかふらつく身体を必死で奮い立たせながら、俺は道路脇にある電話ボックスに入る。
そしてポケットに入っていた小銭を全て電話機に放り込み、暗記していた番号を押す。
相談できる人は、もう一人しか思いつかなかった。
何の役にも立たない、利益を生まない今の自分とつき合ってくれる友人など、一人だっていやしないのだ。
だが頼みの綱のその回線は、いつまで経っても繋がらない。
祈りのような、縋るような気分で呼び出し音を聞いていた俺は ―― 何気なく上げた視線の先、道路脇の店の電光掲示板に浮かぶ時刻が深夜0時過ぎを示しているのを見て、息を呑む。
混乱し過ぎていて、時刻のことなど考える余裕がなかったのだ。
慌てて受話器を置こうとしたが、フックを下ろす一瞬前に回線が繋がり、
「 ―― もしもし?」
という、訝しげな声が伝わってくる。
申し訳なさすぎて咄嗟に言葉が出ず ―― 後にして思えば、その方が余程いたずら電話みたいなのだが ―― 黙っているのに、
「もしもし?」
と、第一声よりも更に5割ほど不審の度合いを深めた声が、した。
「・・・すみません先生、こんな時間に・・・、あの、俺・・・ ―― 」
と、俺は言った。なんとか、言った。
「葛原か」
と、池上先生が、言った。
「・・・はい、葛原です・・・、あの、こんな時間にすみません、本当に、ごめんなさい・・・」
「・・・謝らなくていい、まだ仕事中で起きていたし」
昔のままのゆっくりとした声で、池上先生は言った。
「 ―― ところで葛原、今どこにいるんだ?」
池上先生の言葉が嘘であることを知っていて、何も言えなくなった俺に、池上先生が訊いた。
「・・・ええと、実は1年ほど前に、家は出たんです。大学もやめました。
大学を決める際には池上先生には色々と相談に乗っていただいたのに、中退という形になってしまって、申し訳なかったと ―― 」
「葛原」
続いてゆく俺の言葉を遮って、きっぱりと池上先生が俺の名前を呼び、
「俺は今、そんなことを訊いてるんじゃない。葛原が今、どこにいるのかと訊いてるんだ」
と、言った。
「・・・・・・。」
「答えろ葛原、お前今、どこにいる?」
「・・・駒込、です」、と俺は小さく答える。
「駒込だって?駒込の、どこだ?」、と池上先生が訊く。
「・・・・・・。」
「・・・外にいるんだな」
「・・・・・・。」
何も答えられない俺の沈黙で、全てを察したのだろう。
池上先生はため息をついた。
「近くにある道路標識の住所と、そのそばにある目ぼしい建物をいくつか教えてくれ」
「・・・え?」
「早く言え」
畳みかけるように先生が訊き、それに押し切られるように、俺は池上先生がした質問に答える。
俺の返答を聞いた先生は少し考えてから、
「今から迎えに行ってやるから、待ってろ。ただ3時間ほど時間はかかるだろうから、いったんどこか ―― 深夜営業の店にでも入っていてくれるか」
「ええっ!そんな、だって先生、明日も授業があるでしょう?」
びっくりして、俺は言った。
「なんとラッキーなことに、俺は明日、ちょうど休みなんだよ」
と、池上先生が言った。
「で、でも・・・悪いです、そんなつもりじゃなかったんです、本当に・・・」
「そういうのは後で聞くよ。じゃあ3時間後にそこ、戻っていてくれよ」
有無を言わせない、という口調で先生は言い、俺が返事をするより前に通話は切れた。
考えなしな自分の行動に嫌気がさしたが、やってしまったことはもう取り返しがつかない。
自己嫌悪に満ちたため息をつき、俺は道路脇の縁石に腰を下ろす。
池上先生にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないので ―― 今だって十分過ぎるほどに迷惑極まりない自分なのだ ―― 先生が来るのをここで待つつもりだった。
時折目の前を通り過ぎてゆく人たちは、誰もが一様に暑そうな様子をしていたが、感じる寒気は一向に引かなかった。