トランス

第5話

 明け方直前に少しだけうとうととしたが、結局その夜、俺は上手く眠れなかった。

 空が徐々に白んでゆき、完全に朝日が昇りきったところで、俺は寝るのを諦めて起き上がる。
 不安を覚えた体調に異変はみられず、ほっとしながらカーテンを開ける。

 窓の外には庭に植えられている10本ばかりの白樺の枝葉が広がり、その隙間から下を走る私道が見えた。
 日中は他に人が住んでいないのではないかと思うくらい人通りのない道なのだが、その朝は実に様々な人々 ―― 散歩をする老夫婦、ジョギングをする中年男性、犬の散歩をする主婦らしき女性、等々 ―― がひっきりなしに通り過ぎて行った。
 この辺りの人は、昼間よりも早朝の方が活動的なのかもしれない。

 ベッドの脇に置かれた時計が7時になるまでそんな風景を眺めてから、俺はキッチンへと向かう。

 冷蔵庫を覗くと各種の茸があったのでそれと玉葱を刻んでクリーム・シチューを作った。
 シチューを煮込んでいる間に、細かく刻んだキャベツとピーマンをすりおろした玉葱とオリーブ・オイルと酢で作った即席のドレッシングとあえてサラダにし、コーヒー・メーカーでコーヒーを落とした。
 次にベーコンを焼き、フランスパンにニンニクとオリーブ・オイルをすり込んでパセリを散らし、オーブン・トースターで焼いた。

 美味しい料理の作り方の基本は何百年も前から、万国共通的に変わらない。
 心を込めて作ればあり合わせの材料でも美味しくなるし、いくらお金を出して高級食材を買い集めても、適当に作ればそれなりの味にしかならない。
 施した努力がそのままの形できっちり現れる ―― だからこそ俺は昔から、料理という行為が好きなのだ。

 そんなことを考えながらトマトとチーズを入れたスクランブル・エッグを作っている途中で、先生がキッチンに入ってきた。

「おはようございます」、と俺は言った。
「ああ、おはよう」、と先生は言った。

 先生はもう、明らかに屈託がある様子だった。
 恐らく昨日の俺の話について ―― 中でも特に龍二郎さんとのことを考え、眠れなかったに違いない。

 そう考えると申し訳なかったが、謝るのもおかしな話だったので俺は気付かない振りをして黙っていた。
 先生も、何も言わなかった。

 俺たちはテーブルに向かい合って座り、当たり障りのない会話を交わしながら朝食を食べた。
 食事を終えたところで先生はポットに残っていたコーヒーを暖め直し、それぞれのカップに注いでくれる。

 それから先生は改めて俺の前に腰を下ろし、
「 ―― 昨日は、済まなかった」
 と、言った。

 思ってもみなかったその言葉に俺は驚き、まじまじと先生を見る。

「余りにも思いかけない話だったもので、驚いて・・・葛原の話もろくに聞かず、あんな風に決めつけるようなことを言ってしまった」
 先生は一旦俺から視線を外し、窓の外を眺めるようにしてから、再度俺を見た。
「学生時代から葛原を見ていて ―― いつかお前が、本当に心を許せる相手を見つけることが出来ればいいと、ずっと思っていたっていうのにな」
「・・・え?」

 意味が分からず、俺は訊き返す。
 先生は切なげに笑う。

「・・・昔、お前の話になると同僚はみんな手放しに誉めてたもんだ ―― 驚くほど頭がいいのにそれを威張ったりひけらかしたりせず、面倒見が良くて真面目で明るくて・・・って。実際に葛原には友達、多かったよな。
 でも葛原はいつも寂しそうで、悲しそうだった。どんなに大勢に囲まれていても、一人きりみたいに見えた ―― 少なくとも俺には、そう見えた」
 そう言って先生は、テーブルに置いた手の指を丁寧に組み合わせた。
「そんなお前が、特別だと思える相手を見つけたと言うのなら、相手がどうあれ俺は喜ばなきゃならなかったのに ―― 本当にごめんな、葛原」
「・・・、い、いえ、そんな・・・驚くのは当然だと思いますから」
 と、俺は言った。
 先生は小さく何度か首を縦に振ってから、続ける。

「改めて訊くが、その・・・、相手には、葛原の家のことやその他諸々のことをきちんと説明したのか?」
 と、先生は訊いた。
 俺は無言で首を横に振る。
「怖かった?」
 と、先生が訊いた。
「怖い・・・?」
 と、繰り返して、俺は笑う。
「そうですね、知られなければ一緒にいられる訳ですから ―― それを自ら壊すのは怖かったです」
「・・・そうか」

 と、そこで先生は、なにごとか躊躇うような素振りを見せた。
 けれどそれは、ほんの一瞬の間だった。

「だったらもう一度その人に会いに行って、きちんと説明してきた方がいい」
「 ―― 説明って・・・何を?」
「もちろん、葛原が隠していたことを全て」
「そんな、でも、今更・・・」
「今更も何もない。
 あのな、人間ってのは後悔しないで生きていけるものじゃないが、やるだけやって駄目だった後悔と、もしかしたらと思い続ける後悔は全然違う。特に今回のことは、途中で投げ出したら一生悔やむことになるんじゃないか、どうだ?」
「・・・説明して受け入れて貰える問題でもない気が、するんですけど・・・」
「それは葛原が決める事じゃない。相手が受け入れられないと言うのなら、その時こそ忘れる努力をすればいい」

 きっぱりと、先生は言った。
 少し躊躇ってから、俺は頷く。

「・・・よし、そうと決まったら葛原、東京に戻れ。駅まで送ってやる」
「えぇ!?今日、これからですか!?」
「もちろん。特に用事とか、ないだろう?」
「そ、それはそうですけど・・・心の準備が・・・」
 しどろもどろに、俺は言った。
「そんなものがつくのを待ってたら、いつまで経っても行けやしない。説明することは決まってるんだから、問題ないだろう」
 先生は言い、勢いよく立ち上がった。

 そうして先生の車で長野駅まで送ってもらった俺は、3時過ぎに新宿へ到着する電車に乗った。

 新宿に着いても、

 やっぱり多少は心の準備が必要だし、とか、
 話をする順序をきちんと考えなきゃならないし、とか、
 こんな早い時間じゃ龍二郎さんは帰っていないだろうし、とか、

 ありとあらゆる言い訳をして、龍二郎さんのマンションに行くのを先延ばしにしていたが、7時を過ぎる頃には、言い訳のネタは枯渇してしまう。

 全く実に情けない話だ ―― 自分がこんなに根性なしな性格だとは、知らなかった。
 だがそう思いながら龍二郎さんのマンション前に来てもなお、俺はマンション出入り口まであと10歩余りのところから先へ進めないでいた。

 諦めるのは龍二郎さんにきちんと説明をしてからだ、という先生の主張が正しいことは分かる。
 でも分かっていても、俺はどうしてもそれ以上足を進められなかった。

 再び龍二郎さんにあんな冷たい目で見られたら ―― あんな興味のなさそうな声を聞かされたら ―― もう俺は、生きていけない。
 いや、本当に生きていけないならいい。死ぬ勇気があれば、その方が楽かもしれない。
 だがこんな根性なしの自分はきっと、自ら命を絶つことなど出来はしないだろう。

 1度ならず2度までも龍二郎さんに拒絶され、もういらないと言われたら。
 そんな冷たく痛い記憶を抱えて生きて行くなんて、想像しただけでも堪らなかった。

 どのくらいの間、そうして龍二郎さんの部屋があるであろう辺りを見上げていただろう。
 分からないが、俺はやがてため息をつき、踵を返す。

 このまま長野に帰っても、先生は黙って受け入れてくれるだろうと思った。
 別れ際に先生は、“うまくいったら相手に会わせてくれ”と言っていたが、その内心で最初に俺に言ったように“忘れるべきだ”と思っているのを俺は知っていた。

 龍二郎さんに会わないまま帰っても先生は、どうしようもないな。という風に苦笑しつつも、もう一度会いに行けとは言わないに違いない。

 忘れるべきなのだと、俺は思った ―― どんなに時間がかかるのだとしても、忘れる努力をするべきなのだ・・・。

 その時ふいに、後ろから龍二郎さんの声が聞こえた。
 電光石火の勢いで振り返ったが、振り返ったそこに広がる景色のどこにも、龍二郎さんはいない。

 満遍なく辺りを確認してから、俺は思わず声を上げて笑ってしまう。
 ちょうど通りがかったサラリーマン風の男性が、気味悪そうに俺を見たが、構ったものではなかった。

 こんなにはっきりきっぱりとした幻聴を聞くなんて、どうかしている。
 俺は大丈夫なのかな・・・どう考えても大丈夫じゃないよな・・・。と不安になりながら、再び歩き出す。
 が、数歩歩いたところでまた後ろから龍二郎さんの声で名前を呼ばれ ―― 俺はため息をついて足を止めた。

 今回の声はさっきより、更にはっきりとしていた。

 本当にこんなのは、どう考えても危なすぎる。
 症状が治まったからと通うのをやめてしまっていた精神内科に、再び通い直すべきかもしれない・・・。

 うんざりとそう思いながら俺は左足を後ろに引き、その踵を支点にして、ゆっくりと、振り返った。 

―――― Two Moon Junction 番外編 トランス END.