第10話
「・・・何か、あった?」
長い長い沈黙を越えて、怜が訊いた。
それはまるで、“どうしたんだとか、何があったんだとか、訊かねぇのかこいつは。”と龍二郎が考えた瞬間を狙い澄ましたかのような問いかけだった。
相変わらず、神懸かり的に俺のタイミングを掴むのが上手い、と龍二郎は内心驚かずにはいられない。
そしてこのタイミングが1秒でもずれていたら、絶対に何も話さなかったに違いない、と思いながら口を開く。
「・・・俺の担当してる区域で、厄介な問題が起きてな ―― 突き詰めて見れば、俺の目がきちんと行き届いていなかったって話で、俺の力が足りてねぇってだけなんだが」
と、龍二郎は言った。
「ただそのゴタゴタの裏に、組内部の人間関係やら力関係やらが色々と絡んでいてな・・・まぁこういうのはこの世界では良くある話で、なんてことないと言えばなんてことない話なんだ。なのにこんな風に考え込んじまうのは、我ながら情けねぇと思うんだけどな・・・、ただ、なんか、な・・・」
「・・・ん、分かるよ」、短い間を開けて、怜は言った。
「“分かる”?」、と龍二郎は言い、じろりと怜を見た。
詳しい事情を知らないくせに適当に分かるなどと言われたくない、と龍二郎はむっとしたのだが、怜は首を傾げるようにしてそんな龍二郎を真っ直ぐに見据え、怯むことなく続ける。
「・・・うん、分かるよ。
“良くある話”って言うけど、当事者にとっては良くある話だろうが、たまにしかない話だろうが、そんなの関係ないよね。それによってきつい思いをしたり、つらい思いをしたり ―― そういうのは、問題が起きる頻度とは比例しないってことくらいは、分かる。俺にも」
淡々と、抑揚のない言い方で怜が言い ―― その静かで穏やかな声音が、龍二郎の空虚感に満ちた胸にじわじわと染み込んでくる。
そこから生じる暖かさは、アルコールが胸を焼くのとは全く異なる次元の熱だった。
「 ―― 初めて自分の居場所を見つけたと思ったんだ、昔・・・」
怜から視線を外し、空になったグラスを空中で揺らしながら、龍二郎は呟く。
「俺は親父の顔を知らねぇ。おふくろが死んで、親戚中をたらい回しにされて・・・どこに行っても厄介者扱いされてた。まぁ、当時の俺はやることなすこと無茶苦茶だったし、それでなくても厄介者なのがさらに厄介事を引き起こすんだ、今考えりゃそうされても仕方なかった。今更それに対して恨み言を言う気もねぇ ―― でもここへ流れてきて、この世界を知って・・・初めて、ここにならいてもいいんだと感じた。こここそが俺を俺のまま受け入れてくれる場所なんだ、と」
そこまで言ったところで龍二郎は身体を起こし、空になったグラスを琥珀色の液体で満たす。
そうしながら自分がかなり酔っていることを、龍二郎は冷静に自覚していた。
視界に映る全てのものの輪郭が妙にくっきりとぎらぎらして見えたし、それにこんな話を他人にしていること自体、普通であれば考えられない。
明日冷静になったら、怜にこんな話をして聞かせたのを苦々しく感じるだろうことも、分かっていた。
だが何故か、話すことを止められなかった。
それは龍二郎の話を聞いているのかいないのかすら定かでないほど静かに、ただ隣に座っているだけの怜が醸し出す雰囲気 ―― これこそが龍二郎を普段、不可思議なほど深い眠りに誘う力なのかもしれないと龍二郎は思った ―― のせいかもしれなかった。
グラスの中の液体を2センチばかり飲んでから、龍二郎は続ける。
「・・・だが結局のところ、なんにも変わってねぇんだ。あの頃と今とじゃ、辺りの景色も違うし、周りにいる人間の顔ぶれも違う。場所も違うように見える。でも蓋を開けてみりゃあ同じなんだ。何も、何一つとして、変わってねぇ。同じだ。何から何まで」
グラスを干した龍二郎は再び身体を起こし、スコッチ・ウィスキーの瓶に手を伸ばす。
その手をふいに、怜が押さえた。
「もう、飲むのはやめなよ」
なんだよ、と言いたげな視線を投げてくる龍二郎に、怜が言った。
「今はきっと、いくら飲んでも酔わないよ。
例え酔えたとしても、気持ちよくなれたとしても、それは飽くまでもお酒の力によるものだ。場所やなんかが変わらないって言うのと同じで、酔いが醒めたら、酔う前と同じ現実が待ってる」
「・・・キツいな、お前」、と龍二郎は苦笑した。
「でも、それが事実なんだ」、と怜は言った、「ただ中には変わっていることだって、あるはずだよ。ないと思うのは、龍二郎さんが気付いていないだけだと思う。本質を分かってくれて、真実を見ている人は、どこかにきっと、絶対にいる」
「 ―― そりゃあどうだかな」
と、龍二郎は疑い深い声で言った。
「絶対にそうだよ」
と、怜はきっぱりと言い切った。
「それに目がきちんと行き届いてなかったとか言ってたけど、ちゃんと見てくれていたからこそ、俺は助けてもらえたんだし・・・、そりゃあ俺のことなんか、今起きてる問題からして見れば、とるに足らない、下らないことなんだろうけど」
怜のその言葉を聞いた龍二郎は小さく笑ってからグラスをテーブルに置き、その手で顔を覆う。
視界を塞いでみると、酔いは更に濃度を増す気がした。
「・・・ねぇ、大丈夫?」
手で顔を覆った状態で動かなくなった龍二郎に、怜が言った。
返事をするのも面倒だったので、龍二郎はそのままの格好で答えなかった。
そんな龍二郎を、怜は深く覗き込む。
「・・・龍二郎さん・・・、・・・」
「大丈夫だ、この程度じゃ、そこまで酔わねぇ」
そろそろ一人にして欲しい、という想いを殊更に滲ませて、龍二郎は言った。
だがそれを分かっているはずの怜が、今日に限ってその場を立ち去ろうとしない。
「・・・龍二郎さん」
再度、歌うような調子で、怜が言った。
その声に普段とは違う、何か異質なものを感じた龍二郎はゆっくりと顔を覆っていた手を外し、首を巡らせて怜を見る。
吐息が肌にかかるような至近距離で視線が繋がり、その瞬間、2人を取り巻く空気の重力がふっと、意味ありげに重くなり、じわりと湿度が上がる。
かつて一瞬だけ小さく肌が触れ合った折に共有した、世界中のどんな言語を使っても形容出来ないような、奇妙な感覚。
それが今、この時、2人の間に鮮明に蘇る。
最初の時は、その感覚から逃げるように去って行った怜が、今度はそうしなかった。
怜の唇が龍二郎のそれに、ゆっくりと、近づいてゆく。
唇が触れ合う寸前、薄紙一枚ほどの距離を空けた場所で、怜は一瞬、ほんの一瞬だけ、躊躇いの気配を見せた。
けれどもそれは本当に、一瞬の間だった。
―――― 重なる唇。
それは重なるだけの、触れるだけの、口付けだった。 挨拶のような、でも決して、挨拶などではない口付け。
龍二郎は目を開けたまま、怜の整った額の形と、伏せられた長い睫が月明かりを受けてその頬にうっすらと淡い影を描くさまを、見つめていた。