第9話
組事務所に再び、重苦しい沈黙が流れた。
「顔を上げろ、龍二郎」
沈黙を破って、芳賀が言った。
芳賀の声を受けて、龍二郎がゆっくりと顔を上げる。
「お前はこれまで、本当によくやってくれていたからな ―― それはここにいる人間だけじゃなく、上の方でも理解していることだ。
今回は五木の働きで大事には至らなかったことだし、大目にみてやる」
龍二郎の顔を睨み据え、芳賀が腹の底にびりびりと響くような声で言った。
「だがいいか、龍二郎。二度はない。肝に銘じておけ」
例外的とも言える、それは寛大な措置だった。
芳賀が言ったように九竜会の上層部がこれまでの龍二郎の働きを高く買っていたという理由もあったろうし、芳賀自身が以前より龍二郎を気に入っていたという理由もあっただろう。
「はい、ありがとうございます ―― 申し訳ありませんでした」
龍二郎は再度深く頭を下げて、言った。
「 ―― しかし今回のことは本当に、五木のファイン・プレイだな。お前がいなかったら一体、どうなっていたことか」
と、権堂が満足げに言った。
「佐伯、五木にもよく礼を言っておけよ。
お前らも ―― と言って権堂は周りの男たちを見回した ―― 五木を見習うんだな」
「いえ、そんな・・・、たまたま、タイミングが良かっただけですから。とにかく大事に至らなくて何よりでした」
と、謙遜してみせた五木が、ちらりと龍二郎に視線を流した。
それは本当に、何気ない視線だった。
五木自身にも他意はなかったであろうし、それを見ていた誰もが、そんな視線のことなど全く気にしなかっただろう。
だが五木と視線が合った瞬間、龍二郎には分かった ―― 今回のことは全て、この男が仕組んだことであったのだ、と。
そう、そもそもこの件は最初のところから、全てがおかしかった。
覚醒剤を売りさばいている売人がいるという情報が、龍二郎側に全く入っていないこと。
その情報が、五木にだけ筒抜け状態で入っていること ―― 芳賀組に長く籍を置く五木はその全ての管轄内に独自のコネクションを有しているとはいえ、その情報の流れの偏りは少々異常である。
更に言えばその売人がヤク中で、情報がまるで得られないようになっていること・・・ ――――
むろん、そういう裏工作に気付けなかったこと自体、龍二郎の落ち度ではある。
だがいくら甘いと言われても、やはり龍二郎としては同じ組織の人間がそこまでするとは思わなかった。
今回のことは以前五木がしたような、格下の若頭である及川の手柄を横取りするのとは訳が違う。
ともすれば組織を根底から揺るがすような、そんなやり口なのだ。
こんなことを声高に言えば、自分の責任を人に押しつけるのか、と糾弾されるだろう。
証拠はないのだし、証拠があったとしても既に五木が綺麗に握りつぶしているに違いない。
そういう点では、五木は本当に“出来る”男なのだ。
それが分かっていたので、龍二郎は何も言わなかった。
ただ目が合った瞬間、全てを理解した龍二郎が思わず目を眇めたのを見た五木は、反射的に龍二郎の顔から視線を逸らした ―― 正に問うに落ちず語るに落ちる、といったところであった。
不思議と龍二郎の胸に、怒りや憤りの感情は生じなかった。
最初はむしろ、笑いそうになってしまうのを堪えるのが骨だったほどだ。
だが権堂や他の人間が五木を賞賛し、自分が五木に対する謝辞を口にしているのを聞いているうちに、龍二郎の胸の内を圧倒的なまでの虚無感が襲う。
見る見るうちに自分の内部が、がらんどうになってゆく ―― そんな感覚を龍二郎はどうやっても、止められなかった。
どのような制裁を受けても仕方のない出来事であった為、安藤を初めとする部下たちが蒼白になって謝るのを適当にあしらい、龍二郎は怜のいるマンションに足を向けた。
この数ヶ月で龍二郎は、怜が他の誰よりも龍二郎の機嫌を的確に把握し、不機嫌な時や話しかけられたくないといった空気を読むのが上手いことを理解していた。
これ以上イライラさせられたり、疲れたりしたくない。という時は怜の暮らすマンションに帰るのが一番だった。
まぁ、この時間だと、どこに行こうがみんな寝てるだろうけどな ―― 。
龍二郎はリビングの暗闇に浮かぶデジタル時計の数字が午前2時近くを示しているのを見て、自嘲気味に笑う。
そして適当に棚から引っ張り出してきたスコッチ・ウィスキーの封を切り、グラスに注いだ。
立て続けに2杯ほどのウィスキーを胃に流し込むと、濃度の濃いアルコールが食道を焼き、油紙に火を放つように胃が上から一気に熱くなるのを感じた。
その感覚に、龍二郎は少しだけ安堵する。
身の内が余りに巨大な虚しさに支配されていて、あらゆる感覚が死に絶えてしまったような気がしていたのだ。
そうして5杯ほどグラスを空けただろうか。
ふいに小さな音がして寝室の扉が開き、怜がリビングに顔を出した。
「・・・うわ、びっくりした・・・、帰ってたんだ?っていうか、こんな時間に明かりもつけないで、なにやってるんだよ?」
「 ―― 明かりは、つけるな」
怜が手探りで明かりをつけようとするのを見て、龍二郎は言った。
そう言われて怜はぴたりと動きを止め、このまま黙って寝室にひっこむべきか、それともこのままここにいるべきか逡巡する。
それは珍しいことだった ―― 普段怜は直感的とも言えるやり方でそれらを行動に移していたので ―― しかし今回に限っては、それも道理であった。
なぜなら龍二郎自身が、怜に側にいて欲しいのかいて欲しくないのか、さっぱり分からなかったからだ。
当の本人が分からないことを、他人が分かるはずもない。
荒々しいやり方ではないが、まるで水でも飲むかのようなペースで次々とグラスを干してゆく龍二郎をしばらくの間、怜は無言で眺めていた。
やがて怜は小さく息をつき、足音をさせずにやってきて、龍二郎の隣に腰を下ろした。
が、それだけだった。
ソファに座った怜は折った膝の上で両腕を組み、そこに顎を乗せた状態で黙ったまま長いこと、一言も口を利かなかった。