第16話
そうして再び、そのマンションは龍二郎ひとりのものとなった。
それ自体は別に、なんということはない ―― はずだった。
元々このマンションの存在を龍二郎は殆ど誰にも教えておらず、ここは龍二郎にとって、来れば必ず一人になれる場所だった。
ここに常に他人がいたというこの数ヶ月間の状態の方が、むしろ異常であったのだ。
これで何もかもが元通り、正常な状態に戻ったのだ。
怜のことはなかったこととして、きれいさっぱり忘れてしまえば、それで全てが終るのだ。
だが ―― 駄目だった。
何度もそう思おうと努力してみた龍二郎であったが、その努力は全く実を結ばなかった。
いや、実を結ぶどころか、考えれば考えるほど ―― 時が経ち、冷静になればなるほど、龍二郎の胸にはどうしても答えの出ない疑問ばかりが沸き起こってくる。
新橋に確認してみたが、見た目よりも軽かったとはいえ、怜の傷は決して戯れに傷つけられたものなどではなく、一歩間違えば取り返しのつかない事態にもなり得たと言うことだった。
いくらきっかけを作る為だとしても、そんな生死の境目ギリギリを探るようなやり方をするだろうか?
いや、大体そもそもの始まりからして、龍二郎が怜を拾ったのは気まぐれ以外のなにものでもないのだ。
怜は龍二郎が照れてそんな風に言っていると思っていたようだが、決してそうではない。
深夜から朝にかけての新宿歌舞伎町では、数ブロック毎に行き倒れている人間を見かけることも珍しくない。
怜にしてやったようなことをその度にしていたら、大きなマンションを丸ごとひとつ持っていたとしても部屋数が足りなくなるだろう。
つまり本当に、あの日の出来事は偶然と龍二郎の気まぐれの産物とも言える出来事だったのだ。
怜やその背景にあるものが仕組んだにしては、あまりにも不確定要素が多すぎる。
本当に何かを探ろうとして龍二郎に近付こうとするのなら、もっと確実でまっとうなやり方が、他にいくらでもあるのではないか?
そして何より、共にいた数ヶ月の間に怜が龍二郎に対して示していた言動 ―― そこには警察やその関連筋が龍二郎を始めとする極道を見る時に滲む、蔑むような雰囲気は微塵もなかった。
それはもう絶対に、はっきりと、龍二郎は断言することが出来た。
そのことを知っていたのに、分かっていたのに、何故あんな風に怜を追い出したのか。
思考がそこに辿りつくたび、何度考えてみても、導き出される答えはひとつだった。
そう、怜に裏切られたかもしれないと想像しただけで、それだけで、堪らなかったのだ。
想像によって生じる怒りだけで、我を忘れてしまっただけなのだ。
情けない、と龍二郎は思う。情けないことこの上ない。
“上に立つ者はものごとをその細部まで満遍なく冷静な目で見て、見えない部分すら見抜く眼力を磨くべきだ”
そんな偉そうなことを言っていたのはどこのどいつだ、と龍二郎は糾弾するように自問する ―― お前は自分自身に出来ないことを、他人に求めていたのか、と。
とにかくもう一度、きちんと怜と話をしなければと考えた龍二郎は、安藤に命じて怜の行方を探させた。
が、1週間経っても2週間経っても、怜の情報はその影すら掴めなかった。
もう新宿にはいないのかもしれません。と安藤は言い、それはそうかもしれないな。と龍二郎も思った。
新宿とは違う繁華街に拠点を移されては、探し出すのは難しい。
いや、それよりも家に帰った可能性の方が高いかもしれない ―― むしろそれが一番自然な流れかもしれない、と龍二郎は思う。
どんな理由があって怜が新宿でホストなどをしていたのかは知らないが、元来箱入りというのに等しい経歴の持ち主なのだ。
あんなことがあって、本来の居場所に帰ろうと怜が考えたとしても、何ら不思議はなかった。
怜をマンションから追い出してから丁度1ヶ月後、龍二郎は新宿歌舞伎町にあるホストクラブ“ファラオ”にいた。
「・・・それで、今日はどんなご用件でしょう」
上品な色と形のスーツに身を包んだ“ファラオ”オーナーの小宮山晴美は、龍二郎の前にコーヒーをおいた女性が部屋から出ていったのを確認してから、言った。
その声音に探るようなものがあるのを感じて、龍二郎は小さく笑う。
なんと説明すればよいのか分からず、“ちょっと話があるので”などと言って面会の約束を取り付けたので、小宮山が警戒するのも当然だった。
「今日は仕事の話ではなく、個人的にお伺いしたいことがあって来ました」
と、龍二郎は言った。
「・・・個人的に?」
と、小宮山は訝しげに言った。
「ええ ―― 半年以上前の話になりますが、こちらに葛原怜という名前のホストが、レイという源氏名で働いていましたね」
「・・・ええ・・・、確かに・・・」
「彼がもうここで働いていないことは知っています。
今日伺ったのは、彼が今どこにいるか、ご存じでないかと思ったからです」
龍二郎の怜の名前を出した瞬間、小宮山の顔色は目に見えて青ざめ、話が進むにつれ、その表情が強ばってゆくのが手に取るように分かった。
「・・・あの子が、何かしたのですか」
と、小宮山が堅い口調で訊いた。
「いえ、そうではありません、ただ・・・」
と、言いかけた龍二郎の言葉を、小宮山がきっぱりと首を横に振って遮る。
「失礼ですが佐伯さん、あなたのような立場の方が気まぐれや戯れで人探しをなさるとは、到底信じられません。
どうか本当のことをおっしゃってください。あの子はあなたに探されるような、何をしたのです?」
「・・・誓って言いますが、最初に申し上げた通り、これは私の立場や背景とはまるで関係のない話です」
噛んで含めるようなゆっくりとした言い方で、龍二郎は言う。
「彼が何かをしたというような話では一切ありません。本当です。ですからその点に関しては、どうかご安心を」
龍二郎がそう言った後も、小宮山の顔からは色濃い不安の気配が消えなかった。
しかし龍二郎が“これは裏社会の問題とは全く関係がない”という姿勢を崩さなかったのと、普段から龍二郎がそういった口約束を覆したことがないのが功を奏したのだろう。
やがて小宮山はため息をつき、口を開く。
「私の旧姓は、葛原晴美と申します」
と、小宮山は言った。
「・・・“葛原”・・・?」
と、龍二郎は繰り返した。
「ええ・・・実はあの子と私は、遠い親戚関係にあるのです。
とはいえ、はとこの曾孫が怜だ、という ―― 殆ど他人と言ってもいいような、遠い関係ですが」
と、小宮山は言い、再び深い、ため息をついた。