第17話
小宮山晴美の家は葛原一族の流れをひいてはいたが、いわば末流の家であった。
だがそれでも一族の格式やその名を重んじる風潮は、息詰まるようなものだったという。
そんな一族の在り方や空気にどうしても馴染めず、小宮山は家を捨てた。
かれこれ半世紀以上も前の話だ。
その後小宮山は家族との連絡を一切絶ち、紆余曲折の末、新宿・歌舞伎町で店を持つことになるのだが ―― 今から20年ほど前に、ひょんなことから妹と連絡を取りあうようになる。
それを皮切りとして小宮山は、葛原一族に関する情報をそれとなく集めるようになった。
あれほど忘れようと努めてきた自分の原点に、何十年も経った後で自ら立ち戻ったわけだ。
それは単純に興味本位という点もあったかもしれないし、年齢を重ねた故の原点回帰願望のようなものもあったかもしれない。
小宮山自身にも、その理由ははっきりとは分からなかったが理由はどうあれ、とにかく小宮山は目立たない程度に、俯瞰するように、葛原一族の現状を観察し続けた。
とはいえ、最初はそれほど熱心に情報収集していたわけではない。
一族の内情が半世紀前と何ら変わっていないという事実に微かな失望と蔑みの気持ちを禁じ得ず、こんなことはもうやめようと思ったのも1度や2度ではなかった。
そう思いながら10年以上もの長きに亘り、惰性的に一族を見ていた小宮山だったが、そんな小宮山のスタンスは、ある一人の少年の存在を知ったのをきっかけとして劇的に変化する ―― そのきっかけとなった少年が、怜だ。
「写真を見ただけだったのですが、その視線が綺麗すぎるように感じ、それが非常に気になりました」
と、小宮山は龍二郎に言った。
「半端な綺麗さであれば適当に周りの色に染まってしまえます。けれどもそれを許さない硬質な綺麗さが、怜の視線にはあるように思ったのです」
以降、小宮山の葛原一族への調査は趣味の延長のようなぼんやりとしたものから、怜をターゲットにした本格的なものへと変わった。
その傾倒ぶりは今は亡き小宮山の夫をして、“怜くんは晴美の心の恋人だな”と言わしめるほどであったという。
だがそんな陳腐なものではない切羽詰った激しい衝動と同情が、小宮山にはあった。
葛原一族の内情を、その内部で、肌身で感じたことのない人間にはどんなに説明しても分かりはしないだろう。
だが小宮山には分かった。
そして一族の末流に過ぎなかった小宮山の家でかつて起こっていた以上のことが、葛原一族の本家であった怜の家で起こっているであろうことも。
小学生だった怜が中学生になり、高校生になり ―― そうして調べれば調べるだけ、時が経てば経つだけ、小宮山の心は痛んだ。
家族思いで有能な父親と、インテリア・コーディネーターの肩書きを持つ血筋の良い母親、優秀で見目の良い3人の息子。
都内の一等地に建てられた大邸宅、完璧に美しく手入れされた広大な庭、躾の行き届いた数匹の血統書付きの番犬 ―― 週末ごとに財界人を招いて行われる華やかなパーティー。
対外的に見ると光り輝かんばかりの幸せに満ちた一家であったが、その内情は見るも聞くも、無惨なものであった。
父親には幾人もの愛人と子供がおり、外から見た現状には満足していたが本心から安寧としていた訳でない母親は夫にも子供にも無関心を装って遊び回り、殆ど家に帰ってこない。
世間一般的に見ればそれはそう珍しい話ではく、ありがちな話であったかもしれない。
現に長男も次男も、両親の顔色を的確に窺い、都合良く両親の威光を使い、ずる賢いと表現しても良いほどに上手く立ち回っていたという。
しかしただ一人、怜だけがそれを快しとしなかった。いや、快しと出来なかったのだ。
すぐ上の兄と10近く年が離れて生まれた怜は、小さな頃は家族や親族たちにちやほやと大事にされ、溺愛というのに近いやり方で育てられた。
そうして家族の美しい部分のみを見せられて成長した怜は、その成長とともに綻び、崩壊してゆく家族をただ一人、必死で修復しようとした。
だがそれはどこまでも無駄な努力だった。
崩壊はそもそも、怜の成長と共に進行したのではなく、怜が生まれるずっと以前から始まっていたのだから。
「・・・幼かった怜は、自分の周りにあった幸せに人工的な匂いがしていたことに気が付かなかったし、成長した後もそれが虚構であったことに気が付かなかった ―― いえ、気が付かないというより、信じられなかったのでしょう。
しかし怜が再構築しようとした幸せは実体のない、蜃気楼のようなものでした ―― 誰もが分かっているその事実を、怜だけが分かれなかったのです」
と、小宮山は遠い目をして言った。
「あの子の努力は、それはそれは必死なものでした ―― 家族の為に一生懸命食事を作ってみたり、家族の誕生日にサプライズ・パーティーを計画してみたり・・・怜は大真面目だったのでしょうが、全てを知った上で傍から見ると、そこにはチャールズ・チャップリンの無音映画以上の、シュールな滑稽さすら漂っておりました」
そこで小宮山は一旦言葉を切り、纏まった間を取った。
龍二郎も何も言わなかった ―― ただかつて自分が何気なく怜の料理を誉めた折、怜が酷く嬉しそうな表情をした、その理由のようなものを慮ると、激しく胸が痛んだ。
「・・・それで、何らかの方法で彼と連絡をとったのですね」
感じる胸の痛みをやり過ごす努力をしながら、龍二郎は訊いた。
小宮山は小さく首を横に振った。
「とんでもありません。どんなに怜に同情の念を抱いたとしても、私から葛原一族に対して働きかけるようなことは出来ませんし、する気もありませんでした。
今から1年と少し前に、怜の方から私の元にやって来たのです」
「・・・彼から、ですか?」
「ええ ―― その少し前から怜が精神科に通院しているらしいという噂がありまして・・・、そのせいもあったのでしょうか、怜に関しての情報は掴みづらくなっておりました。その矢先に、突然・・・。
恐らく精神を患う前後に、どこかから私のことを聞いたのでしょう。思い詰めたような顔をして、働かせて欲しいと言いました」
「それは ―― さぞかし驚かれたことでしょうね」
再び少し間を空けてから、龍二郎は言った。
「それはもう・・・これまで10年以上一方的に観察してきた当の本人が、突然現実のものとして目の前に現れるのですから、驚くというようなレヴェルではありませんでした」
と、小宮山は口元に微かに苦い笑みを浮かべて言った。
「もちろん断るべきであろうことは、分かっていました。怜が背負う一族のしがらみは、私などとは次元が違うことは当然ながら分かっておりましたし・・・ですが内情を知っていたからこそ、ギリギリの所まで耐えた果ての行為であると分かっていたからこそ、私はどうしてもあの子を、突き放すことが出来なかったのです・・・」
そこまで話し終えたところで、小宮山は疲れ切った風に力なく、両目を閉ざした。