Two Moon Junction

第19話

 果てがないように湧き上がる後悔を胸に組事務所に向かった龍二郎は、溜まっていた報告や用事を手早く片付けた。
 そして足早に帰ろうとしたのだが ―― 早く独りになって、色々と考えて頭を整理する必要を、切実に感じていたのだ ―― 事務所出入り口へと向かう廊下の途中で後ろから名前を呼ばれ、足を止める。

 振り返ったそこには、芳賀組の若頭トップである五木幸太が立っていた。

「・・・お疲れさまです」、と龍二郎は言い、軽く頭を下げる。

 だがその内心で龍二郎は、五木から声をかけてくるとは珍しいこともあるものだ、と思っていた。
 五木が龍二郎の担当地区に覚醒剤の売人を送り込んだ例の一件以来、五木はさりげないやり方ではあったが龍二郎と2人きりになるのを避けている様子だったのだ。
 龍二郎としては今更例の件をどうこうしようとは考えていなかったが、他人の足を引っ張ってまで上に上ろうとする五木のような輩には極力関わりたくないと思っていたので、用事がなければ話しかけることもしなかった。

「最近、忙しくしているみたいじゃないか。どうだ、久々に飲まないか」
 と、五木は言った。
「・・・何か、お話でも?」
 と、龍二郎は言った。

 出来る限り抑える努力はしたが、胡散臭いと身構える素振りを完全に隠すのは難しかった ―― 当然ながら。

「いや、特に重要な話があるわけじゃないがな」
 と、五木は意味深長な笑みを口元に浮かべた。
「ただ・・・明美が寂しがってたぞ。時々は会いに行ってやらないと、浮気されることになる」

 龍二郎が最もらしい理由をつけて帰ってしまいそうな気配を察した五木が何の捻りもなく言い放ち、それを聞いた龍二郎はすっと両目を眇める。
 そんな龍二郎を見た五木が口元に浮かぶ笑みを深めた。

 なるほどね・・・。と、龍二郎は思う。
 考えてみればここ数ヶ月、明美だけでなく他の女とも会っていなかった。
 いや、会うどころか正直、その存在を思い出すことすらなかった。
 その間に五木が明美に言い寄ったか、明美の方が五木に連絡をとったということなのだろう。

 そう考えながら、龍二郎は改めて真っ直ぐに五木を眺める。

 負け惜しみなどでは一切なく、龍二郎の胸には悔しさや怒りというような感情は生じず ―― ただただ不思議だと思った。

 芳賀組内でも、その親団体の九竜会でも、五木は古参の若頭として龍二郎などよりずっと認められている。
 五木のやり方に内心反発を覚えることはあったが、言い争いをした記憶もないし、彼に不利益になるような行動をとった覚えもない。

 それなのに何故この男は、こうも自分を目の敵にするのだろうか、と龍二郎は訝しく思わずにはいられない。
 組内での龍二郎の評価を下げるだけでなく、馴染みの女を寝取った上でその事実を誇示して見せて、五木に何の利益があるというのか。

 どうだ、とでも言いたげな視線を投げかけてくる五木を無表情に見ていた龍二郎は、やがて軽く肩を竦める。

「 ―― そういうことでしたら彼女は今後、五木さんの方で面倒を見てやって下さい。
 あのマンションは解約しても、そのままお譲りしても、どちらでも構いません。その点についてだけ後ほど連絡をいただければ、こちらで処理します」

 どこまでも淡々と、事務的に、龍二郎は言った。
 そして、それでは。と一礼して踵を返しかけた龍二郎を、再び五木が呼び止める。

「ったく、可愛くねぇ男だな、お前は。何をすればその能面みてぇな雰囲気や表情を乱してやれるんだろうな」

 吐き捨てるように言って舌打ちをした五木を、再び龍二郎は振り返って見た。
 そして言う、「・・・それではご要望にお応えして告白しますが、実は1ヶ月ほど前から、俺は色々な意味で乱れっ放しなんですよ。特に今日なんかその最たるものなんです ―― 五木さん、あなたが気付いていないだけだ」

 恐らく龍二郎が口にした言葉の意味を、うまく把握できなかったのだろう。
 眉間に小さな皺を寄せて黙り込んだ五木に再度軽く頭を下げ、龍二郎は二度と振り返ることなく、その場を後にした。

 それからまた、1ヶ月という月日が過ぎた。

 怜がいなくなってから2ヶ月 ―― 最初の頃はともかく、時が経てば経つだけ、怜の記憶は薄れてゆくだろうと龍二郎は思っていた。

 道で怜に似た男を見かける度、反射神経的に振り返ってしまったり、
 行き過ぎる人の流れの中、無意識に怜を探してしまったり、
 夜の街角で酔いつぶれているホストの顔をつい確かめてしまったり・・・、

 そういう行為は時が経つにつれ、間遠になってゆくだろうと龍二郎は思っていた。

 36年間行きてきた中で龍二郎もむろん、決して忘れられる訳がないと思うような経験を幾度かしてきた。
 だが最初は刺々しい記憶も、時の経過と共にその角は丸まり、いつしかセピア色めいた記憶として思い出せるようになるのが常だった。
 それは時に残酷であるとすら思えることであったが、だからこそ人間は記憶の重さに負けずに生きてゆけるのだとも思ってきた。

 しかし一概にそうであるとは言い切れないのかもしれない ―― 少なくとも怜に関しての記憶は、2ヶ月経っても全く色褪せる気配がなかった。

 新宿の外れに位置するそのマンションで、龍二郎はひとり、ため息をつく。
 ため息などいくらついてみても仕方ないというのは分かっていたが、最近一人になるとどうも駄目だった。
 そうかと言って女と寝てみても、かえって虚しさが増すだけというのでは、もうどうにもならない。

 自らのあまりの女々しさに、自分でもいい加減うんざりする ―― そう考えて龍二郎は深いため息をついた。
 そして次の瞬間、またため息をついている自分に気付いた龍二郎は顔を歪めて荒々しい動作で立ち上がり、ヴェランダに続くガラス戸を引き開ける。
 吹き寄せてくる終りかけた夏の熱気と冷気を混ぜ合わせたような風に逆らうように外に出ると、眼下には新宿のぎらぎらとした夜景が広がっていた。

 沈黙に耐えかねて付けっ放しになっている部屋の中のオーディオでは、名前を知らないかすれた声の女の歌手が、

 死んでないって言ってるでしょ、浮かんでるだけだってば、怖くなんかない、ただ変わってゆくだけだもの・・・、

 と、繰り返し、呟くように、歌っている。

 その声を聞くとはなしに聞きながら、ぼんやりとネオンの海に視線を浮かせていた龍二郎は ―― 何気なくヴェランダの真下、マンション前の道路を見下ろし ―― その目を疑う。

 そこに立って、こちらを見上げている人影は、怜にとてもよく似ていた。
 いや、“よく似ている”どころの騒ぎではない。

 一瞬、幻なのではないかと思った。
 余りに思い詰めていたので、網膜が幻覚を作り出したのではないかとすら思った。  同じようなヴェランダが続いているので、下からはこちらの様子は確認出来ないだろう。
 だが落ちるのではないかという位に身を乗りだして確認してみればみるほど、それは怜にしか見えなくなった。

 それが怜であると確信した瞬間、龍二郎は靴を履くのももどかしく、部屋を飛び出した。