第20話
部屋を飛び出した龍二郎は、各階の中央部分にあるエレベーター・ホールに向かい、叩きつけるようにエレベーターの呼び出しボタンを押す。
3台あるエレベーターのうち2台は1階に止まっており、最後の1台は8階部分で死んだように動かなかった。
1階に止まっているエレベーターのうち、真ん中の1台がゆっくりと上昇してくる。
その動きは普段よりも3倍増しくらいにゆっくりとしているように見えた。
思わず階段で下りようかとすら思った龍二郎だったが、38階からではどう考えてもエレベーターを待った方が早いだろうからと、逸る気持ちを押さえる。
やがてやってきたエレベーターに乗り込んで1階を指定したが、階下へと降りてゆく速度はやって来た速度よりもさらに遅い気がした。
どう考えてもおかしいんじゃないか、こんなのは。と龍二郎は思う ―― 引力というものの存在が希薄になっているのではないかと、疑わずにはいられない。
月面基地に設置されたエレベーターであったとしても、もう少し降下速度は速いに違いないとすら思った。
緩慢に移り変わってゆく階数表示はしかし、龍二郎の苛立ちを知ってか知らずか、なんと18階でぴたりと止まった。
エレベーターを止めたのは40代半ばほどの中年男性であったが、扉の向こうに腕組みをして仁王立ちしている龍二郎を見て、何とも形容しがたい、声にならない声を上げた。
男が乗り込めるように龍二郎は黙って脇に身を退かせたのだが、男は凍り付いたようにその場を動かない。
「 ―― 乗るんならさっさと乗れ」
痺れを切らして、龍二郎は言った。
だが男は口の中でもごもごと意味不明な、言い訳めいたことを呟きながら、頭と両手を大きく横に振る。
「・・・ったく、何なんだよ。どいつもこいつも、喧嘩売ってんのか」
扉が閉まり、再び降下してゆくエレベーターの中で、龍二郎はイライラと呟いた。
もう永遠に1階には辿り着かないのではないかと龍二郎がうんざりし始めた頃、エレベーターはようやく地上に到着した。
ゆるやかに開きかけた扉をこじ開けるようにしてエレベーターから出た龍二郎は、マンションのエントランスを駆け抜けて外に出る。
部屋から見下ろした時に怜が立っていた場所には、既に怜の姿はなかった。
素早く左右に視線を走らせた龍二郎はマンションに向かって左へ向かう道の果てに、怜の姿を捉える。
「 ―― 怜!」
後先のことなど一切考えられず、龍二郎は怒鳴った。
龍二郎の声を聞いて反射的に振り返った怜は ―― まさかここで龍二郎が現れるとは、予想もしなかったのだろう ―― 文字通り10センチばかり飛び上がるようにして驚いたようだった。
だが次の瞬間、怜はくるりと龍二郎に背を向けて脱兎の如く駆け出す。
「・・・っ、おいこら、お前、なんだって逃げんだよ、待てって、怜 ―― 怜!止まれ!」
走ってゆく怜の後を全力で追いかけながら、龍二郎は怒鳴る。
龍二郎のその声が聞こえてないはずはなかったが、怜は足を止めようとしない。
行き交う人の間を縫うように逃げる怜と、それを追いかける龍二郎という図は、当然ながら激しく人目を引いた。
この時のことを後から思い返すたび、龍二郎はよく通報されなかったものだと冷や汗をかくことになるのだが ―― そんなことにいちいち気を配っている余裕はなかった。
その時の龍二郎には、どうあってもとにかく怜をつかまえて、きちんと話をしなくてはならないという思いしかなかったのだ。
怜は人の流れに逆らうようにしながら、幾度か路地を曲がって走ってゆく。
その日は週の半ばの平日だったので人通りはそう多くなかったが、人がいないというわけではもちろんなく、なかなか思うように走れなかった。
途中何度か信号があり、行く手に信号が見える度に龍二郎は怜を止めてくれないかと願った。
だが信号はまるで怜の走る速度を計算して、それに合わせているかのように、いつも青かった。
最後の信号では怜を見失わない為に、赤信号を無理矢理渡らなくてはならなかったほどだ。
危うく龍二郎を轢きそうになった車が鳴らした激しいクラクションの音に怜は一瞬振り返って龍二郎を見たが、それでも立ち止まらなかった。
いくつのブロックを駆け抜けただろうか、怜はふいに大通りに繋がる脇道を右に入った。もちろん龍二郎もその後を追って道を曲がった。
そこは雑居ビルが立ち並ぶ路地の裏手にあたる、人気のない狭い通りだった。
道は雑居ビルの裏口に面しており、道の両脇にはテナントが使用するゴミ箱やら、古びたライトバンやデリバリー・バイクの類が雑然と並んでいる。
表通りとは裏腹に街頭の数はぐっと少なくなっていて、全体的に薄暗かった。
そしてそのどこにも、どんなに目を凝らしてみても、怜の姿は見えない。
どこかから微かに足音が聞こえてきたが、その足音がどの雑居ビルと雑居ビルの間の路地から聞こえてくるのかは分からなかった。
「・・・・・・、くっそ・・・」
乱れて額に落ちかかる前髪を乱暴に後ろに払いながら龍二郎は独りごち、ぐるりとあたりを見回してから踵を返した。
闇雲に小さな路地を抜け、後ろに足音が聞こえなくなったところで、怜は足を止める。
後ろを確認したが龍二郎の姿はなく、誰の人影もなかった。
もう自分がどこにいるのかすら、怜には分からなかった。
とにかく人目につかなそうな、目立たない路地を選んで走っていただけなので仕方ない。
何はともあれなんとか龍二郎を撒けたようだと考えた怜は背中をビルの壁にもたれさせ、上がってしまった呼吸を落ち着かせるために深呼吸を繰り返す。
そして呼吸が正常なものに近づいたところで、
「・・・あー、ほんっと驚いた・・・、まさかあんなタイミング良く龍二郎さんが出てくるなんて、思わなかったし・・・」
と、呟いて足元に置いていた荷物を手に取り上げた、その時。
「 ―― 驚かせて悪かったな」
という声をかけられて、怜は鋭く息を呑む。
振り返って、確認するまでもなかった。
それは絶対に、何があろうと、忘れられない声だった。
怜は恐る恐る、ゆっくりと、時間をかけて、振り返る。
振り返ったそこに予測した人物が立っていて欲しいのか、聞こえた声が幻聴であって欲しいと思うのか ―― 怜自身にも、分からないままに。
だがもちろん振り返ったそこには、幻でもなんでもなく、厳しい表情をした龍二郎本人が立っていた。