第21話
「・・・どうして、・・・」
と、怜は呟くように言った。
「舐めんじゃねぇ、この辺りは文字通り、俺の庭みたいなものなんだ。路地って路地を知り尽くしてる。
逃げる奴がどこに行くかなんてのは、ちょっと考えりゃ想像がつくんだよ」
と、龍二郎は言った。
怜はぐっと返答に詰まったが、実際のところ龍二郎にも、絶対に怜を見付けられるという揺るぎない自信があった訳ではなかった。
直感と山かけとを混ぜ合わせるようなやり方で目星をつけ、可能性が高そうだと思える場所を回ってみたのだ ―― 2箇所目で早々と怜を見つけることが出来たのは、まさに奇跡のようなものだった。
上がった呼吸はそのままに、龍二郎が一歩、怜に近寄ろうとする。
それを察した怜が、びくりと身構えるようにして右足を後方に引いた。
怜の動きは、野良猫のそれを彷彿とさせた。
強引に間を詰めようとすれば、怜は再び隙を見て逃げ出すに違いない ―― 一晩に2度も新宿を走り回るような真似をしたくなかった龍二郎は、踏み出そうとした足を引く。
「“ファラオ”のオーナーから、全て聞いた」
その場に立ったまま、龍二郎は言った。
「あんなことを言って、済まなかった。謝って済む問題じゃないことは分かってるが、謝る以外の方法を思いつけねぇ。
もちろんすぐに許して貰おうなんて、虫の良いことを言うつもりはないが」
そこまで言ったところで、龍二郎は大きく息をつく。
あんなに走ったのは本当に久しぶりで、まだ息が切れていたのだ。
そんな龍二郎を見ても、怜は無言だった。
怜の表情からは彼が怒っているのか、呆れているのか、はたまた龍二郎の言葉の真意を推し量って考える余地があるのかないのか、さっぱり分からなかった。
しかしどうあれ、ここで諦めてしまう訳にはいかない龍二郎は、続ける。
「行くところがないって言うなら、ずっとあそこに居ていい。もう二度と、誓って、あんなことは言わないし、お前を追い出すような真似はしない。だからあと一度だけでいい、やり直す機会をくれる訳にはいかねぇか」
一言一言、少しでもいいから怜に届くようにと思いながら龍二郎は言ったが、怜はそれでも何も言わなかった。
沈黙が流れた。
沈黙がどんなに長く重くなっても、怜は相変わらず、何も言おうとしない。
ただその視線からは、徐々に感情が ―― 最初はあった、この状況に対する興味のようなものが ―― 失われてゆくように見え、龍二郎は居たたまれない心地になる。
何でもいいから、とにかく何とか言ってくれ、と龍二郎は思う。
例え“絶対に許さない”と罵られるように言われるのでも構わなかった。
何か反応があればそれに対して行動を起こせるが、無言を貫かれては行動の起こしようがないのだ。
永遠のように流れゆく沈黙を、いくつかのブロックを隔てた大通りの喧噪と、車のエンジンとクラクションの音だけが満たしてゆく。
だが龍二郎はやがて、その底で誰かが誰かに向かって、低い声でずっと話しているのに気付く。
距離があまりにも遠すぎるせいだろうか、話の内容はさっぱり分からなかったが、それは女の声のようだった。
抑揚も何もなく続くその声は、酷くもの悲しく聞こえた。
それがこの状況のせいなのか、話しかける相手の声がまるで聞こえないせいなのか、龍二郎には判断がつかなかった。
「 ―― ずっと」
時間の感覚がなくなるほどに長い沈黙の果て、怜がぽつりと言った。
居たたまれずに地面に落としていた視線を素早く上げて、龍二郎は怜を見る。
怜も龍二郎を見ていたが、怜の双眸に浮かんでいる光は複雑に交錯していて、掴みどころがまるでなかった。
「ずっと ―― 物心ついた頃から、氷の中で生きているみたいな気がしてた」
と、怜は言った。
「だからあの夜も、死ぬのかと思って、寒くて、怖かったのは確かだけど・・・こんなものかとも思ってた。やっぱり最後まで変わらないんだって。でも・・・、肩に置かれた龍二郎さんの手だけが、暖かかった」
怜の声は、うっかりすれば聞きのがしてしまいそうな、とてもとても、小さな声だった。
聞こえても聞こえなくても、どちらでも構わないと思っているのがよく分かるような。
だがその息遣いすら聞き逃すまいと、龍二郎は全神経を聴覚に集めるようにして怜の声に耳を傾ける。
ここで何かを逃してしまったら、もう取り返しはつかないことを、当然ながら龍二郎は知っていたのだ。
「本当に、本当に、びっくりしたんだ、あの時 ―― 本当に」
と、怜は続ける。
「助けてもらった時だけじゃない、その後もずっと、いつも、龍二郎さんだけが“冷たくない”人だった。
そんなのは生まれて初めてで、でも・・・でも、龍二郎さんは大人の男の人で、恋人も沢山いるって言ってたし、俺みたいなのは子供にしか見えないんだろうし ―― 俺の・・・、俺の家のことだって、龍二郎さんにとってはマイナスにしかならないのも分かってて、いつか知られない筈がないのもきっと、全部、分かってた。それは多分、最初から」
そこまで言ったところで、怜は小さく唇を噛んで俯く。
「でも・・・離れないとって、想像するだけで辛かった。
だからずるいのかもしれないけど、毎日毎日、自分を誤魔化すみたいに、許される限り側にいられればいいって、それだけ考えるようにして ―― 一番最初の時だって、もの凄く、滅茶苦茶に叫び出しちゃいそうなくらい緊張してたのに、情報を得るためだったんだろうなんて、本当に酷いこと言うし・・・」
「済まなかった、怜。何もかも、全部、俺が悪かった ―― ああもう・・・、どうすりゃいいんだ」
途方に暮れて、龍二郎は言った。
それを受けて、俯いていた怜が視線だけを上げた。
その目に浮かぶ警戒の色は先ほどよりも、明らかに薄れていた。
龍二郎は試しにゆっくりと、怜に向けて足を踏み出してみる。
最初と違い、怜は逃げる素振りは見せなかった。が、それでも気は抜かず、龍二郎は慎重に一歩一歩、怜へと近付いてゆく。
やがて目の前に立って見下ろしてくる龍二郎を怜は見上げ、
「 ―― もう二度とあんな目で俺を見ないって、約束してくれる?」
と、言った。
「何であろうと、お前が嫌がることは、今後一切しねぇよ」
と、龍二郎は言った。
「・・・戻って欲しい?」、と怜は訊いた。
「だから、そう言ってんだろ」、と龍二郎は答えた。
「一度も聞いてないと思うよ、それ」、と怜は言った。
龍二郎は少し考えてみてから、唇の右端を歪めるようにして笑った。
そして言う、「戻って来てくれ、怜。さっきも言ったようにお前が嫌がることは二度としないし、何より大事にしてやるから ―― だから、戻って来い。ついでにお前が望むことで、俺が出来ることなら何でもしてやる」
「・・・なんだか凄く我儘になっちゃいそうだけど」
「お前なら、どんなんでも構わねぇよ」
冗談だけではない、といった口調で龍二郎が答えるのを聞いた怜は、そこでその日初めて笑った。
そしてその流れで伏せた額を、さり気なく龍二郎の胸に寄せるようにする。
龍二郎はそんな怜の身体を、乱暴じみたやり方で抱きしめた。