Two Moon Junction

第4話

 ―― 怜が眠ったら、抜け出せばいい。

 本当にそのつもりだったし、そもそもあんな状況で眠れる筈がないと龍二郎は思っていた。
 いや、そう信じていた。揺るぎなく。

 怪我をしているとか体格が違いすぎるとかそういう問題ではなく、見知らぬ人間と大差ない男が隣にいる状況で、眠れる訳がない。
 いくらなんでも自分はそこまで脳天気にはなり得ない、と。

 しかし・・・ ――――

「起きたら朝だしな・・・」
 と、龍二郎はぶつぶつと呟いた。

「・・・え?何か言いましたか?」
 と、ハンドルを握っている安藤が訊いた。

「や、何でもねぇ」
 龍二郎は答え、車のシートに背中を沈めて目を閉じる。

 安藤はそれ以上は訊かなかった。
 龍二郎が不機嫌なのだと思ったようだったが、龍二郎は不機嫌な訳ではなかった。

 ただ、意味が分からなかった。また、情けないとも思う。
 いくら前日の睡眠時間が2時間を切っていたとはいえ、あんなにぐっすりと眠り込むとは、全く・・・

 本当に信じらんねぇ・・・。と舌の上だけで呟き、龍二郎はぎゅっと眉根を寄せた。
 そして明日か明後日に新橋が怜の所に診察に来ると言っていたよな、と考える。

 恐らく新橋は、いつも通り深夜近くに診察をしに来るだろう。
 その時は自分も戻っておくつもりであり、そうなると怜はまた自分の為にベッドを半分空けると言って聞かないに違いない。

 次は絶対に眠らない。

 後にして思えばこんな一人相撲は馬鹿馬鹿しいの一言なのだが ―― 不覚を取られたという感覚に囚われていた龍二郎にそれに気付く余裕はなかった。

 固い決意と共に目を開いた龍二郎は、後ろに流れ行く車窓の景色に挑むような視線を投げた。

 だが結局、どんなに固い決意を抱こうが、心に秘めたものを現実世界で実行出来なければそれはただの叶わなかった夢でしかない。

 眠らないどころか数回目の挑戦(?)の際には、“早く目が覚めてしまったので”と怜が起き出して朝食を作っていたのに気付かない、という所にまで行き着いてしまい ―― こうなると龍二郎としてももう、言葉がなかった。
 こいつは身体から催眠導入剤でも発散しているのではあるまいか?などと、非現実的な疑いまで抱いてしまう。

「あの、お口に合いませんか?」
 龍二郎の箸が進まないのを見て、怜が心配そうに訊いた。
「・・・いや、そうじゃない。旨いけどさ」
 と、龍二郎は言った。

 それはお世辞でもなんでもなかった。
 怜の作った和食の朝食は、短時間で作ったとは思えない程に、全てがきちんと作られていた。

「 ―― ただ・・・この材料、どうしたのかと思ってさ」、と龍二郎は言う、「冷蔵庫には酒しか入ってなかったろ」
「ゆっくりとなら動いてもいいと新橋先生に言われたので、さっきコンビニに買いに行きました」、と怜はあっさりと答える、「今はコンビニにも色々揃っているんですよね」

「・・・あっそう・・・」
 と、龍二郎は言った。

 つまり起き出して行ったり食事を作る気配に気付かなかっただけでなく、部屋を出入りされるのにすら気付かなかった訳だ。
 最早ショックを通り越して面白くすらなってきた龍二郎は、もう極道稼業を廃業すべきかもしれない・・・。と自嘲ぎみに考えた。

「 ―― そういや明日また、新橋が怪我の様子を来るって言ってたぜ」
「そうですか、夜ですよね?」
「いや、明日は休みだから昼間に来るってさ。俺がいなくても、もう構わねぇだろう?」
 と、言いながら、龍二郎はふんわりと焼き上げられた出汁巻き卵を口に放り込む。
「・・・はい、大丈夫です」
 と、少しの間考える様子を見せてから、怜は頷いた。

 その後3日ばかり、龍二郎は怜のいるマンションに帰らなかった。
 仕事の方が立て込んでいたのもあったし、崩壊しつつある自分の危機管理能力について、その破綻の度合いを確かめたくもあったのだ。

 とは言え、特別なことをした訳ではなく、他の人間と寝てみただけだ。
 結果はいつもどおり、隣に他人がいる状態ではよく眠れなかった。
 多少眠れても、隣で女に寝返りをうたれただけできちんと目は覚めたし、それは寝不足な状態であっても変わらなかった。
 つまり龍二郎の危機管理能力は、あの葛原怜という青年限定で乱れるのだ ―― 破壊的かつ壊滅的に、不可解な程に。

 だがそんなことが分かっても問題は何ひとつ解決しない。
 当然ながら根本的な疑問は最初から少しも変わらず、きちんとした存在感を有したまま同じ所にあるのだ。

 何にせよこれ以上怜を一人で放っておく訳にも行かず、龍二郎は朝食を作られた日から数えて4日後、早めに仕事を切り上げてマンションへと向かった。

 マンションに向かう道すがら、龍二郎は怜と顔を合わせたら、まず何を言うべきだろうかと思う。
 何かを訊ねるべきであろうという予感はしたが、訊ねるべき質問の方向性はさっぱり見えなかった。

 どうしたものかと龍二郎は悩みかけたが ―― 問題は程なく解決した。
 するべき質問を見定められたのではなく、マンションに辿り着く前に買い物袋を手にした怜とばったり会ってしまったのだ。

「あ、おかえりなさい、ちょうど良かった」
 龍二郎の姿を見た怜は、柔らかい微笑を顔に浮かべて言った。
「・・・なにが?」
 と、龍二郎は訊く。
「一昨日、怪我を見て下さった新橋先生に、もう前と同様の日常生活をして問題ないだろうと言われました」
 と、怜は説明する。
「ですからそろそろ仕事に戻ろうと思います。
 今回、佐伯さんには本当にお世話になりました。ありがとうございました」
「ふぅん、そっか・・・、結局負けっぱなしだったな」、と龍二郎は言った。
「・・・え?」、と怜が訊き返した。
「いや、こっちの話」、と龍二郎は言った、「で、また元の店で働くのか?」
「はい、昨日電話をかけたら、やる気があるのなら戻ってもいいとオーナーに言われました」
「・・・やる気があるなら、ねぇ・・・、んんん、しかしお前、そりゃあ ―― 」

 と、龍二郎が言いかけた、その時だった。

 レイ、という悲鳴のような声がして、それと同時に音高くアスファルトを鳴らしてこちらへ駆け寄ってくる足音がした。

 何かを考えて、判断するような余裕は、全くなかった。

 殆ど筋肉反射的に、龍二郎は隣にいて振り返ろうとした怜の腕を掴み、その身体を力任せに引き寄せた。