第5話
「どうしたんですか、佐伯さん」
庇うように引き寄せられた龍二郎の胸に手をついた怜が、不思議そうに訊いた。
その問いを聞いた龍二郎は、おい、と内心激しく突っ込まずにはいられない。
見た目よりもずっと軽かったとはいえ、人に刺されて怪我をしたのはれっきとした事実なのだ。
また再びそんなことがあったら、と普通なら考えるだろう ―― どうしたもこうしたも、あったものではない。
一体どこまですっとぼけた男なのかと呆れつつ、それでも緊張は解かずに龍二郎は声をかけてきた女を見た。
「・・・ちょっと、あ、あんたっ、な、な、何なのよ、っ・・・」
龍二郎の厳しい視線に晒されて、怯えたように、女が言った。
濃いメイクに香水の匂い、派手な色と形のスーツ、攻撃的な色に塗られた長い爪 ―― 龍二郎が拾った時の怜は「いかにもホスト」という風であったが、こちらは「いかにもホステス」という風だった。
年の頃は20代前半くらいだろうか、おそらく怜と同年代であろうと思われた。
「 ―― アケミさんじゃないか、どうしたの?」
龍二郎の身体の陰から顔を出した怜が、怯えて半歩下がるようになった女に言った。
怜のその呼びかけに、アケミという名の女の顔が、ほっとしたように、泣き出しそうに、歪んでゆく。
「どうしたのじゃない、っ・・・」
と、アケミが微妙に龍二郎を迂回するように動き、縋るように怜の腕を掴んだ。
「随分探したのよ?お店にいくら行ってもみても、いないんだもの・・・」
「ごめんね。ちょっと怪我をして休んでいたんだ」
と、怜が答えた。
「怪我?怪我って、どこを怪我したの?酷いの?」
と、アケミが眉を顰めて聞き返した。
「いや、もう大体治ったから大丈夫だよ。そろそろお店に出ようと思っていたところだし」
そこまでのやりとりを聞いた龍二郎は、怜を刺したのはこのアケミという女とは違うようだと考えて身体を引いた。
龍二郎が身体を引いたその分、アケミは更に一歩、怜に近付く。
「この数週間、凄く不安だった・・・アタシがあんなことを言ったから、いなくなっちゃったのかなって」
と、アケミは怜を掴んでいる手と同じ雰囲気を纏わせた視線で怜を見上げて、言った。
「・・・、ああ・・・」
と、怜は一瞬あらぬ方に視線を流してから、アケミを見下ろした。
「それとこれとは関係ないよ。でも、アケミさんが求めているものを、俺はあげられないって事実は変わらない」
「どうして?私はただ、レイがいてくれるだけでいいのよ、本当よ」
「アケミさんだって本当は分かっているはずだ。俺が何を言っているのか」
「・・・っ、分かんない・・・、だってレイは誰よりもアタシのこと、分かってくれるじゃない」
「何度も言ったけれど、それは勘違いだ、アケミさん」
「そんなことない、誰も・・・親ですら、レイみたいに親身になってくれない。
アタシにはもう、レイしかいないの・・・ ―――― 」
―― と、2人の実のあるようで実際は空っぽな会話の連なりは、その後延々と続いた。
途中、何度も帰りたいと思った龍二郎だった。
だが何故か怜の右手が龍二郎のスーツの裾を強く掴んでいたため、帰ろうにも帰れない。話の内容的に、途中で口も挟み辛かった。
そもそもこの場面で龍二郎が“先に帰っているから”などと言えば、事態は更に混迷の度合いを増すのは火を見るよりも明らかだ。
人の色恋沙汰(になるのだろうか、これも)の顛末を側で聞いているなど野暮なことこの上なかったが ―― 怜とアケミのやりとりを聞けば聞くほど、龍二郎は疑問に思っていた事柄がいちいち腑に落ちてゆくのを感じていた。
そして“やる気があるのなら、戻ってもいい”という“ファラオ”のオーナーの曖昧な返答が持つ意味も、また。
“ファラオ”のオーナーである小宮山晴美(こみやまはるみ)は、上品な外見の、初老の女性であった。
その来歴には謎が多かったが、かなり身分の高い家の出らしいという噂がまことしやかに流れていた。
裏社会ではそういった噂は結構多く、龍二郎はこれまでに一度もその手の噂を信じたことはない。
箔をつけるために本人が流した噂であったりする場合が多いのを、知っていたからだ。
だが何度か小宮山と顔を合わせるうちに龍二郎は、彼女に関する噂は真実であろうと予測していた。
彼女には明らかに、上流社会の人間特有の気高さと凛とした気配があった。
本当に頭と勘の良い、かくしゃくとした女性で、シマを取り仕切る極道への対応は一般人に対するのとまるで変わらない。
その態度が過去何度もトラブルを生んだらしいが、龍二郎が担当になってからはそういうトラブルも絶えて久しい。
少しでも極道風を吹かせれば小宮山が頑なになることを龍二郎は察していたし、そうなれば仕事はやり辛くなる。
老舗の店を怒らせても何ら意味はない ―― それは媚びているというのではなく、龍二郎は小宮山のやり方を昔から好ましく思っていたのだ。
そして小宮山の方でも、極道ぶらない龍二郎を気に入ってくれていた。
そんな訳である程度小宮山の性格を把握していた龍二郎は、“やる気があるのなら、戻ってもいい”という小宮山のらしくない曖昧な台詞を不思議に感じていた。
最初に龍二郎が決め付けたように、適当に客と寝て売り上げを稼ごうとするようなホストが店にいては困るはずだからだ。
だがこうして怜が客と話しているのを聞いて、龍二郎は小宮山の悩ましい気持ちが手に取るように分かる気がした。
怜は本当に、客と寝たりしていないのだ。
この数分、話を聞いただけで龍二郎にもそれは分かった。
だがある意味、怜の対応は寝るよりも始末が悪いかも知れなかった。
優しすぎる。そして、余りにも親身すぎるのだ。
相手の話に“これこそ自分が人生で一番聞きたかった話ある”とでもいう風に耳を傾け、それについてまるで我がことのように真剣に悩み、心を砕いて解決しようとする。
表面的な振りではない。
少しでも、ほんの少しでもそういう素振りがあればいいのだが、怜にはそれがまるでなかった。
怜のやり方にはこういった場合によく言われる、八方美人とか誰にでもいい顔をするとか、そういった言葉で片付けてしまえない、何か真剣すぎるものがあった。
こんなやり方で相手の話を聞き、対応していれば、寝ようが寝まいが勘違いする人間は出てくるだろう、と龍二郎は思う。
恐らくは小宮山もそれを全て分かっていて、知っていて、だからこそすっぱりと怜を切れないのだ。
悪いことをしているのであればそれを指摘して切るのは簡単で、小宮山もそれを躊躇いはしないだろう。
だが一生懸命、真っ当にやっているのを分かっているから、切り捨てられないでいるのだ。
小宮山の、育ちがいい故の甘い部分を見た気がして、龍二郎は小さく苦笑を漏らした。