第8話
小さな悲鳴と共に怜が床に倒れてゆき、龍二郎は慌ててその身体を支えようとしたが、間に合わなかった。
引きずられるようにバランスを崩した龍二郎もろとも、2人は派手な音と共に床に倒れ込む。
そうして倒れ込んだ瞬間 ―― はだけたシャツから覗いた互いの肌が小さく触れ合った瞬間 ―― そこから鋭い勢いで生じた何か奇妙な感覚に、龍二郎は身体を起こすのも忘れ、そのままの距離で怜を見下ろす。
そして更に不思議なことに龍二郎は、押し倒されたようになったまま見上げてくる怜がその内心で、自分が感じているのと全く同質の感覚を覚えているのを知っていた。
沈黙が、あった。
それは決して気まずいものではなかったが、どこか身の置きどころがないような、焦燥感に満ちた沈黙だった。
「・・・こういうのが、フォール負けってやつ?」
沈黙を破って、怜が言った。
そして手だけを動かし、リモコンを龍二郎に向かって差し出す。
「・・・、ああ・・・」
身体を起こしながら、龍二郎は答えた。
「やっぱり俺、ああいうのは苦手だから先に寝るね。食器とかは洗わなくていいから、水につけておいてくれる?」
と、怜が言った。
「・・・、ああ・・・」
と、龍二郎は繰り返した。
ゆっくりと立ち上がった怜が、おやすみなさい。と言って寝室に去って行く。
黙ってその後ろ姿を見送った龍二郎はしばらく、閉ざされた寝室の扉を見ていたが、やがて、
「・・・なんだったんだ、今の・・・」
と、ひとりごち、乱暴に前髪をかきあげた。
“何か真っ当な仕事を探せ”と龍二郎に言われて以来、怜はあれこれと就職先を探しているようだった。
だがそれは、なかなかうまくいっていないようだった。
これは龍二郎の推察でしかなかったが、恐らく怜はこれまでの学歴やら何やらを正直に、明確に書けないでいるのだろう。
折からの不況に加え、過去にそんな怪しげなブラック・ボックスを抱えている人間が、そう簡単に雇われないのは当然であった。
それでも頑張って就職先を探すか、諦めて大人しく家に戻るか。
怜に関してはその先行きがどうなるか、龍二郎にはうまく予測が出来なかった。
人を見る目はそれなりにあるつもりだったが、怜に関しては一緒に過ごす時間が長くなれば長くなるほど、どんどん掴みどころがなくなってゆくのだ。
その掴みどころのなさが、怜を適当に見捨てられない理由なのかもしれない、と龍二郎は考える。
現状を知った医師の新橋には ―― あの青年はどうした?と訊ねられて、答えたのだ ―― 相変わらず極道とは思えない面倒見の良さだな。と呆れられた。
だがなんと言われようと、どんなに笑われようと、怜がその辺によくいる適当なホスト崩れであったのなら、ここまで深く肩入れはしなかっただろうと、龍二郎はやはり思うのだった。
それは怜が龍二郎のマンションに暮らし初めて、2つほど季節が巡った頃。
龍二郎の担当するシマから、芳賀組が把握していない覚醒剤の売人が捕まった。
警察にではない。
たまたま噂を聞きつけたという芳賀組若頭トップの五木幸太が、警察が介入する前に彼らを押さえたのだ。
捕まった数人の売人は全て、この辺では見かけない男たちだった。
龍二郎もその部下たちも、これまでに一度もシマ内で彼らを見たことはなかった。
関係者の巡回の間隙を縫って薬を売りさばいていた節があり、他団体の差し金ではないかという疑いもあった。
が、肝心の売人自身も相当薬を使っており、その話は要領をまるで得ず、背景や薬の入手ルートを特定することは難しかった。
しかし何がどうあれ、シマ内で覚醒剤を野放しにした龍二郎の責任は重大だった。
暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律、通称暴力団対策法が適用されてからというもの、覚醒剤や拳銃は当局に取り締まられただけで組の存続に関わる事態になる。
特に新宿は都の締め付けも厳しく、覚醒剤の売人が一人でも捕まれば、そのシマを取り仕切っている組織にまで手が伸びてくるのは必至だ。
“それはうちの組織の人間じゃない”などと言っても、聞き入れられるとは思えなかった。
既に因縁をつける、というようなやり方で、多くの組織や店舗が潰されているのだ。
むろんだからといって暴力団の強力な資金源であるそれらを扱わない組織はなかったが、その取り扱いは現在、どこの組でも慎重に慎重を重ねている。
それを担当シマ内で野放しにしたまま気付かなかった龍二郎に、言い逃れの余地はなかった。
組長である芳賀和彦と筆頭若頭である権堂始、そしてほかの2人の若頭や組織の上層部の人間の前で謝罪の言葉を口にして頭を下げた龍二郎は、そのまま長いこと、微動だにしなかった。
「てめぇのシマの中心部で起きてることに全く気付かないとは ―― しかもものがシャブときた。これがどういうことか、分かってんだろうな、佐伯」
長い沈黙の後、荒々しい口調でもって、権堂が言う。
組長である芳賀は苦虫を噛み潰したような顔をしたまま、終始無言だった。
「・・・はい。言い訳の仕様もありません。どのような制裁も、覚悟しています」
内心の葛藤を慎重に押し殺して、龍二郎は低い声で言った。
今回、シマ内で知らないうちに覚醒剤が出回っており、売人が捕まったという一報を受けたとき、龍二郎の部下たちはそんなことは絶対にあり得ないと激しい口調で龍二郎に言った。
その思いは龍二郎とて同じだった ―― シマ内で起きていることは、どんな小さなことでも見逃してないという強い自負が、龍二郎にはあったのだ。
だが売人がいたという事実は事実として、変わらない。
抱いていた自負は、単なる慢心であったのか ―― そう考えると堪らなくなり、龍二郎は深く頭を下げたまま血が滲むほどにきつく、唇を噛んだ。